普通のガーデナーであれば躊躇するようなアップダウンの激しい土地を、ヘザー・ミューアは1930年代に逆にその急斜面を活かして、このエリアを印象的な庭に仕上げています。
また、彼女は同じく1930年代には現在はウォーター・ガーデンとなっている場所にテニスコートを造るなど、数々の異なるレイアウトに挑戦しています。
また、彼女は同じく1930年代には現在はウォーター・ガーデンとなっている場所にテニスコートを造るなど、数々の異なるレイアウトに挑戦しています。
ヘザー・ミューアは1961年に、そして夫のジョン・ブキャナン・ミューアは1956年に亡くなっていますが、それよりも数年前の1954年に夫妻はキフツゲート・コートの大邸宅に比べるとこぢんまりとしており、ふたりで暮らすのに住みやすい大きさの家であるフロント・ロッジに移り住みました。
そしてふたりの子どもの長女であるヘザー・ダイアン・ビニー(ダイニー・ビニー)と、夫のジョン・アンソニー・フランシス・ビニーが、キフツゲート・コートに住むことになりました。
そしてふたりの子どもの長女であるヘザー・ダイアン・ビニー(ダイニー・ビニー)と、夫のジョン・アンソニー・フランシス・ビニーが、キフツゲート・コートに住むことになりました。
2代目、ダイニー・ビニー
乗馬などを好んでたしなむ活発な少女であったダイニー・ビニーは、元々はあまりガーデニングに興味はなかったと言っています。
しかし彼女は母であるヘザー・ミューアの跡を継いで、キフツゲート・コート・ガーデンズの美しさを継続、そして発展させていくことになりました。
しかし彼女は母であるヘザー・ミューアの跡を継いで、キフツゲート・コート・ガーデンズの美しさを継続、そして発展させていくことになりました。
1960年代にはヘザー・ミューアが造り上げた急斜面の庭に半円形のプールを配置し、地中海の雰囲気をも持つ独特な景観を造り上げます。
また、1930年代からチャリティーのために一般公開をしたこともあるキフツゲート・コート・ガーデンズを本格的に人々に開放したのも彼女の時代です。
また、1930年代からチャリティーのために一般公開をしたこともあるキフツゲート・コート・ガーデンズを本格的に人々に開放したのも彼女の時代です。
また、ダイニー・ビニーはポーティコの前に造られたホワイト・サンク・ガーデンに小さなプールと噴水を組み込むように再設計しています。
イギリスのTVのインタビューで観た彼女は、「ガーデニングの本は何の役にも立たないし(‼)、間違った情報が多い」とずばりと発言したりなど、とても威勢の良い、はきはきとした元気な女性という印象を受けました。
イギリスのTVのインタビューで観た彼女は、「ガーデニングの本は何の役にも立たないし(‼)、間違った情報が多い」とずばりと発言したりなど、とても威勢の良い、はきはきとした元気な女性という印象を受けました。
3代目、アン・チェンバーズ
1974年、60歳になったダイニー・ビニーは、ヘザー・ミューアと同じようにフロント・ロッジに住まいを移します。そのため、この広大なキフツゲート・コートには1974年から1981年までは誰も住んでいない状態だったそうです。
そののちの1980年代、ダイニー・ビニーの長女であるアン・ヘザー・チェンバーズ(アン・チェンバーズ)と、夫のジョナサン・ガイ・チェンバーズがキフツゲート・コートに住むようになり、チェンバーズ夫妻が祖母から受け継がれてきた庭づくりを継承していきます。