2018年11月30日 更新

イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ ベイトマンズ・ガーデン Vol.1 ~

英国を代表する作家、詩人であるラドヤード・キップリング。世界を旅し、住み歩いてきた彼が、1902年より亡くなるまでの34年間を過ごした終の棲家がベイトマンズです。 広大な敷地に佇む邸宅と、それを取り囲む庭園。今回は文豪キップリングが愛したベイトマンズとそのガーデンのレポートをお届けします。

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イギリスへの帰国 ー 家族を襲う悲劇

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アメリカから帰国したキップリング一家は1896年、イギリス南西部にあるトーキーに住み、そして翌年の1897年にイーストサセックスのロッティングディーンへ移り、そこで一人息子であるジョン・キップリングが誕生します。

大きな喜びに包まれたキップリング家ですが、その後に大きな不幸が一家を襲います。1899年にアメリカに滞在したキップリングは肺炎にかかり、同じ病いに倒れた長女、ジョセフィーヌが6歳で命を落としてしまうのです。

初めての子どもであり、またお気に入りの娘であったジョセフィーヌが亡くなったことはキップリングを打ちのめすほど大きな衝撃でした。

失意のどん底にいた彼は当時すでに英国では知らぬ者はいないと言われるほど有名人であったため、プライバシーを守るべく、そしてジョセフィーヌの思い出の土地を離れるために、新たな家を探すことになったのです。

ベイトマンズとの出会い

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1900年、キップリングと妻のキャロラインはイーストサセックスに位置するベイトマンズを見て、二人ともすぐにこの邸宅と土地に魅了されました。

しかし申し出をする前にベイトマンズは既に他人の手に渡ってしまっており、1902年の夏に再び売りに出された際には購入することを即決したのです。

キップリングは当時の金額にして9,300ポンドで邸宅、そして水車小屋やホップの乾燥所を含む建造物や33エーカー(13.3ヘクタール)の敷地を得ることとなりました。

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この時キップリングは37歳。40年近くも国を超え住居を移り変わり続ける生活が終わり、ここにようやく安住の地を見つけたのでした。

広大なこの敷地の中に勝手に立ち入ってくる人はおらず、プライバシーも得ることが出来たキップリングは精力的に作品を書き続け、このカントリーサイドで子どもたちと過ごしたり、友人たちの来訪を楽しむ日々を過ごしています。

1920年代には1年間に訪れる友人、知人の人数は150人にも及んだとも。そしてキップリングはベイトマンズの周囲の森や畑をさらに購入し、ますますその敷地は広大になりました。

イギリス人初のノーベル文学賞受賞

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キップリングは1907年にノーベル文学賞を受賞しましたが、イギリス人では初の受賞者であり、その時キップリングはまだ41歳、史上最年少の受賞者でもありました。

彼はその時に王室からナイトと騎士団勲章を与えられることになりましたが、これを『私はラドヤード・キップリングとして生き、死んでいくのを望んでいる』と拒否しています。

この時、キップリングの名声は絶頂期にありました。 彼の生涯の文学的収入は、ハードカバーだけからでも、当時の金額にして約100万ポンドほどと推定されています。

ノーベル文学賞も受賞し、金銭、名誉、才能と、彼の人生には何の問題もないように見えました ー たったひとつ、幼かったジョセフィーヌの死を除いて。

しかしキップリングの不幸はこれだけでは終わらなかったのです。

第一次世界大戦 ー 続く不幸

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1914年に第一次世界大戦が勃発した際、キップリングの一人息子であるジョンは、英国海軍に参加する決心をしますが、極度の近視であったために入隊を拒絶されてしまいます。

また同じ理由により陸軍にも入ることが出来なかったジョンでしたが、キップリングは英国軍の前指揮官、アイルランド警備隊の大佐と友人であったため、彼の後押しでジョンは無事に入隊、そして少尉に任命されます。この当時、ジョンはやっと17歳になった頃でした。

訓練を終えフランスに出発したジョンですが、翌年の1915年9月、ルーの戦いで行方不明になったと報告が入ります。ジョンはその時18歳の誕生日を迎えたばかりのことでした。

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この記事を書いたひと

Hazuki Akiyoshi Hazuki Akiyoshi