2018年9月18日 更新

イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ヒドコート・マナー・ガーデン Vol.1 ~

イングリッシュガーデンについて語るときに、決して欠かすことのできない存在であるヒドコート・マナー・ガーデン。今回はシシングハースト・カースル・ガーデンと並び、世界中のガーデナーの憧れであり、またイングリッシュガーデンの聖地とも言える場所のレポートをお届けします!

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プラント・ハンターとしての活躍

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ローレンス・ジョンストンの情熱はガーデニングだけでなく、植物採集、プラント・ハンティングにも向けられました。

自分自身で新しい植物を求めて世界を広く旅しただけでなく、彼は多くのプラント・ハンターをサポートしています。

1922年、エドワード・オーガスタス・ボウルズとアルプスに向かい、1923年にはアンデスに向かったW.T.ゲーテを支援、1926年にはビルマへ行ったフランク・キングドン=ワードを後援しています。

1927年にはローレンス自身が南アフリカに行き、さらには1930年には中国へと向かっています。

ローレンスの持ち帰った種や植物はイギリスでは今ではよく見られるものであっても、彼が初めて取り入れた品種も多く、また植物の名前にもローレンスやヒドコートの名が付けられているものもたくさんあるのです。

フランスの庭園 セール・ド・ラ・マドンヌ

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1920年代に年老いて来たガートルード・ウィンスロップのために、二人は暖かい南フランスのマントンに土地と別荘を購入し、冬はそこで過ごすようになります。

セール・ド・ラ・マドンヌと呼ばれるこの別荘に、ローレンスは新たに庭園を造り始めます。ローレンスが採取してきた貴重な珍しい植物は、イギリスの寒い気候では育たないものも多く、彼はそれらを南フランスで育てています。

彼はこの場所で11人の庭師を含む、23人の使用人を雇っていたそうです。ガートルード・ウィンスロップは1年の殆どをこのマントンで過ごすようになりました。

ローレンスはイギリスの気候が良い夏の間はヒドコート・マナーで送り、10月になると母のいるマントンへ移動するという暮らしを続けています。

母の死

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1926年、ガートルード・ウィンスロップはその一生をマントンで終え、彼女の遺体はヒドコート・マナーから1マイル離れた場所に埋葬されました。

体が弱っていた母の死は予期されていたことでしたが、彼女の遺言でローレンスに資産を一度にすべてを渡すのではなく、定期的に与えられる手当として残されたことにローレンスはショックを受けます。

もちろんその手当は一般の人々からすれば莫大なものであり、彼の生活が不自由を感じることはまったくなく、ローレンスは依然裕福な人であり続けました。

ガートルードの遺志はもしかすると、すべての財産を一度に渡してしまうと、ローレンスがそれをガーデニングにそそぎ込んでしまうことを危惧した母の思いからかもしれません。

しかしこの遺言は、ガートルード・ウィンスロップが最後まで息子ローレンスを支配しようとしていたとも思える、象徴的な出来事にも感じられてしまうのです。

ナショナル・トラストの管理下へ

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1940年代に入り、70代となったローレンス・ジョンストンは、ヒドコート・マナーよりも長い時間を温暖な気候の南フランスにあるマントンの別荘、セール・ド・ラ・マドンヌで過ごすようになります。

イギリスの重税を考慮したローレンスは南フランスへの移住を考えますが、彼が造り上げた庭のあるヒドコート・マナーを、ナショナル・トラストに管理してもらうことを決断します。

しかし彼は母の遺産の一件で受けたショックもあったせいなのでしょうか、ヒドコート・マナーをナショナル・トラストに寄贈するのではなく、買い取ってもらおうと考えます。

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1943年にはナショナル・トラストのカントリーハウス委員会の秘書をしていたジェームズ・リーズ=ミルンに接触し、その旨を伝えます。

しかし寄贈ではない庭園を買い取るのに躊躇していたミルンは返事を渋ります。けれどもその数年後、ミルンは父と共にヒドコート・マナーの庭園に訪れた際にその完成度に感嘆し、残すべき価値のある庭園であると実感します。

そして長い審議の結果、1948年、ナショナル・トラストでは運営以来初めて庭園を買い取り、基金で管理、そして運営されることが決定されたのです。
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この記事を書いたひと

Hazuki Akiyoshi Hazuki Akiyoshi