イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ ベイトマンズ・ガーデン Vol.1 ~

英国を代表する作家、詩人であるラドヤード・キップリング。世界を旅し、住み歩いてきた彼が、1902年より亡くなるまでの34年間を過ごした終の棲家がベイトマンズです。 広大な敷地に佇む邸宅と、それを取り囲む庭園。今回は文豪キップリングが愛したベイトマンズとそのガーデンのレポートをお届けします。

『ジャングルブック』の生みの親

ラドヤード・キップリングの名前を聞いてもピンと来ない方でも、『ジャングルブック』の原作者だ、と聞けば、誰しもそのタイトルを耳にしたことがあるのではないでしょうか。

ラドヤード・キップリングの書いた児童のための短編小説である『ジャングルブック』は36もの言語で訳され、また何度もアニメ化、映画化されている名作です。子どもの頃に映画やアニメを見たり、小説を読んだことのある、という方も多いはず。

また、児童文学作品だけでなく、数多くの優れた小説や詩を残したラドヤード・キップリングは英国人としては初めて、そして最年少でノーベル文学賞を受賞しています。

当代随一の売れっ子作家であり、富と名声も得ていたキップリング。しかし辛く厳しい出来事も多く身に降りかかった人生でした。

ラドヤード・キップリングとは

ジョゼフ・ラドヤード・キップリングは1865年、12月30日に当時は英国統治下にあったインドのボンベイで生まれています。

父親のジョン・ロックウッド・キップリングは彫刻家、陶器デザイナーであり、当時ボンベイにあった芸術学校の建築・彫刻家の教授の職を得ていました。

彼は妻のアリスに求愛した場所であるイギリスのピーク・ディストリクトの近く、また陶器の街として有名なストーク・オン・トレントから20キロほど離れた場所にある、ラドヤード湖の名をとって息子に与えています。

インドで生まれ、イギリスで教育を

英国で教育を受けさせたいと願っていた両親より、キップリングは妹とともに5歳のときにイギリスへ送られます。

デボンにある軍人の子息ための学校、ユナイテッド・サービス・カレッジに入るまで、この時期の里親となった元海軍の役人であったホロウェイ夫妻とともにポーツマスで過ごした日々は、幼いキップリングにとっては虐待と感じるほどでした。

寄宿学校でも最初は馴染めずにいたキップリングでしたが、徐々に友人も増え、のちにこの時代のことを『ストーキーと仲間たち』のモデルにしています。

キップリングはオックスフォード大学へ入学するためには両親からの資金が足りず、また奨学金で入学するには成績が及ばなかったために、父の勧めでパキスタンのラホールの地方新聞社で、編集者助手として働くことになりました。

作家としての成功、結婚へ

ラホールでキップリングは急速にジャーナリストとして評判を得て、詩や小説も発表し、情熱を持って仕事に取り組みました。1886年には最初の詩集を出版、そして1887年にはインドに移り、ここでも短編小説を書き続けます。

キップリングは1888年にイギリスへ帰国、作家としてのキャリアをスタートさせます。若く才能にあふれたキップリングは次々と作品を発表し、ロンドンでも作家として成功を収めます。

その後1892年の1月、死去したアメリカの出版社に勤める友人、ウォルコット・バレスティエの妹であったキャロライン・バレスティエとロンドンで結婚することになりました。この時キップリングは26歳、キャロラインは29歳でした。

アメリカへー娘たちの誕生

二人はアメリカのバーモント州にある農場の小さなコテッジに住み、1892年の終わりには最初の子どもであるジョセフィーヌが誕生します。世界的名作となる『ジャングルブック』はこのコテッジに住んでいた際に生み出されました。

ジョセフィーヌ誕生後に二人はキャロラインの弟であるビーティー・バレスティエから10エーカーの土地を購入し、自分たちの家を建てます。

この家はキャロラインの死去した兄、ウォルコットと一緒に作り上げた作品と同じく『ナラウカ』と名付けられました。

1896年には次女のエルシーが生まれ、順風満帆に見えたキップリングですが、当時の政治的問題によるイギリスへの反感、そしてキャロラインの弟のビーティーの飲酒問題による家族間の争いが起こります。

ビーティーとの諍いが警察沙汰にまで発展し、メディアによってさらしものにされ、プライバシーを守ることが出来なくなったキップリングは、イギリスへの帰国を決意するのでした。

イギリスへの帰国 ー 家族を襲う悲劇

アメリカから帰国したキップリング一家は1896年、イギリス南西部にあるトーキーに住み、そして翌年の1897年にイーストサセックスのロッティングディーンへ移り、そこで一人息子であるジョン・キップリングが誕生します。

大きな喜びに包まれたキップリング家ですが、その後に大きな不幸が一家を襲います。1899年にアメリカに滞在したキップリングは肺炎にかかり、同じ病いに倒れた長女、ジョセフィーヌが6歳で命を落としてしまうのです。

初めての子どもであり、またお気に入りの娘であったジョセフィーヌが亡くなったことはキップリングを打ちのめすほど大きな衝撃でした。

失意のどん底にいた彼は当時すでに英国では知らぬ者はいないと言われるほど有名人であったため、プライバシーを守るべく、そしてジョセフィーヌの思い出の土地を離れるために、新たな家を探すことになったのです。

ベイトマンズとの出会い

1900年、キップリングと妻のキャロラインはイーストサセックスに位置するベイトマンズを見て、二人ともすぐにこの邸宅と土地に魅了されました。

しかし申し出をする前にベイトマンズは既に他人の手に渡ってしまっており、1902年の夏に再び売りに出された際には購入することを即決したのです。

キップリングは当時の金額にして9,300ポンドで邸宅、そして水車小屋やホップの乾燥所を含む建造物や33エーカー(13.3ヘクタール)の敷地を得ることとなりました。

この時キップリングは37歳。40年近くも国を超え住居を移り変わり続ける生活が終わり、ここにようやく安住の地を見つけたのでした。

広大なこの敷地の中に勝手に立ち入ってくる人はおらず、プライバシーも得ることが出来たキップリングは精力的に作品を書き続け、このカントリーサイドで子どもたちと過ごしたり、友人たちの来訪を楽しむ日々を過ごしています。

1920年代には1年間に訪れる友人、知人の人数は150人にも及んだとも。そしてキップリングはベイトマンズの周囲の森や畑をさらに購入し、ますますその敷地は広大になりました。

イギリス人初のノーベル文学賞受賞

キップリングは1907年にノーベル文学賞を受賞しましたが、イギリス人では初の受賞者であり、その時キップリングはまだ41歳、史上最年少の受賞者でもありました。

彼はその時に王室からナイトと騎士団勲章を与えられることになりましたが、これを『私はラドヤード・キップリングとして生き、死んでいくのを望んでいる』と拒否しています。

この時、キップリングの名声は絶頂期にありました。 彼の生涯の文学的収入は、ハードカバーだけからでも、当時の金額にして約100万ポンドほどと推定されています。

ノーベル文学賞も受賞し、金銭、名誉、才能と、彼の人生には何の問題もないように見えました ー たったひとつ、幼かったジョセフィーヌの死を除いて。

しかしキップリングの不幸はこれだけでは終わらなかったのです。

第一次世界大戦 ー 続く不幸

1914年に第一次世界大戦が勃発した際、キップリングの一人息子であるジョンは、英国海軍に参加する決心をしますが、極度の近視であったために入隊を拒絶されてしまいます。

また同じ理由により陸軍にも入ることが出来なかったジョンでしたが、キップリングは英国軍の前指揮官、アイルランド警備隊の大佐と友人であったため、彼の後押しでジョンは無事に入隊、そして少尉に任命されます。この当時、ジョンはやっと17歳になった頃でした。

訓練を終えフランスに出発したジョンですが、翌年の1915年9月、ルーの戦いで行方不明になったと報告が入ります。ジョンはその時18歳の誕生日を迎えたばかりのことでした。

息子、ジョンの死

彼の死を決定付ける証拠もなく、キップリングはフランスまでジョンを探しに出かけますが、その消息はずっと掴めぬままでした。

のちの1992年にジョンであろう遺体が発見される事になるのですが、当時のキップリングはもちろんそれを知ることはありませんでした。しかし息子はもう戻って来ないと実感した彼の絶望、悲しみは深く、キップリングはジョンの死から決して立ち直ることはありませんでした。

ジョンの死についてのキップリングの苦しみ、喪失感は、彼が残した1916年の作品『マイ・ボーイ・ジャック』に表れていると言われています。

キップリングの晩年

キップリングはベイトマンズに訪れる少数の友人たちをもてなしましたが、ジョンの死がもたらしたベイトマンズの雰囲気は以前とは異なり、陰鬱なものとなっていました。

たった一人、成長することができたキップリングの次女であるエルシーは父をとても愛し尊敬していましたが、『私は決して姉や弟の代わりにはなれないと知っていました』と切実な思いを吐露しています。

その後エルシーはジョージ・バンブリッジと結婚し、家を出ます。多くの使用人はいたけれど、家族は妻のキャロラインだけの生活になったキップリングは、その後も執筆を続けますが、1930年代になると彼は患っていた十二指腸潰瘍と糖尿病に苦しみ、1936年1月18日にこの世を去ります。

彼の希望であった『ラドヤード・キップリングとして生き、そして死にたい』といったとおり、彼の遺灰はウェストミンスター寺院の詩人のコーナーに、シンプルに『RUDYARD KIPLING』と刻まれた銘板の下に葬られています。

ナショナル・トラストの管理下へ

妻のキャロラインは3年後の1939年に亡くなり、彼女の遺志を継いで次女のエルシーはベイトマンズをナショナル・トラストに寄贈します。

そしていま現在も敷地と邸宅、そして庭園はナショナル・トラストの管理下に置かれ、ベイトマンズに訪れる来訪者は世界中から後を絶たず、彼の残した暮らしぶりを見ることが出来ます。

キップリングはその作品や発言、行動によって人種差別主義者、蔑視思想との意見も出ていますが、その答えはそれぞれの人の判断に任せたいと思います。

しかしキップリングが優れた文筆家であり、人々の胸を打つ作品を作り続けてきたのは間違いのない事で、彼の書いた著名な詩のひとつ、『If-』はキップリングの死後60年も経った1995年のBBCの世論調査で、英国人のもっとも好きな詩に選ばれています。

ストイックさと力強さ、そして繊細さと優しさを兼ね備えるこのキップリングの詩を、機会があればぜひ一度、読んで頂ければと思います。

イギリスが生んだ作家、詩人であるキップリングが愛したベイトマンズ・ガーデンには、キップリングの幼少時から、国を超え住まいを変えた、辛い出来事も多かった波乱に満ちた人生からは想像できないほど穏やかな風景が広がっています。

シンプルなレイアウトの中で繰り広げられる華やかで洗練された植栽、そして野趣あふれる風情に満ちた広大な敷地。次回はベイトマンズの庭園の魅力についてレポートをお届けします。