イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ヒドコート・マナー・ガーデン Vol.2 ~

数ある英国の庭園の中でも、世界中の園芸ファンにその名を知られており、かつ人気の高いガーデンのひとつである、ヒドコート・マナー・ガーデン。裕福なアメリカ人、ローレンス・ジョンストンが1代で築き上げ、現在ではナショナル・トラストが管理するこの庭の歴史と魅力をレポートします!

ヒドコート・マナー・ガーデンの庭造り

1948年よりナショナル・トラストの管理下に置かれているヒドコート・マナー・ガーデンは、40年間の年月をかけ、この土地と邸宅を母とともに購入したリッチなアメリカ人、ローレンス・ジョンストンが造り上げた庭園です。

現在では年間17万5千人を超える来場者を迎え、今もなお人々を魅了してやまないこのガーデンは、今では古典的とも言えるレイアウトとデザイン、そして植栽が特徴です。

しかしジョンストンがこの土地を母と共に購入した頃は、ガーデニングに詳しい人間であれば決して庭造りに向いている場所ではないとすぐに分かる土地だったと言われています。

悪条件の中でのスタート

ヒドコート・マナー・ガーデンの土地はコッツウォルズ北部の、西から東にかけて昇る丘の高原にあり、海抜600メートルの場所に位置しています。

そこは北からは冷たい空気が流れ込み、南西からは強風が吹きすさぶ場所であり、土は多くの石灰を含んでいました。

今でこそ多くの人々に愛される卓越した庭園であるヒドコート・マナー・ガーデンのですが、庭づくりがスタートしたときは、誰もこの土地に、このような素晴らしいガーデンが完成するとは思っていなかったのではないでしょうか。

しかし土や天候、立地の悪条件をものともせず、ジョンストンは自身の理想とする庭を造り始めていくのでした。

ローレンス・ジョンストンが受けた影響

ローレンス・ジョンストンは非常にシャイで人見知りのする人物として知られていましたが、それはガーデニングに関しても同じでした。

彼の庭づくりに関する記述や計画書などはほとんど残されておらず、現在ではその時代の庭の写真や、当時を知る人々の記憶から得た情報から、ヒドコート・マナー・ガーデンの歴史や、ジョンストンが受けた影響を知るばかりとなっています。

このように情報が少ない中で、ローレンス・ジョンストンが最も影響を受けた本は、トーマス・H・モーソンの『庭造りにおけるアート&クラフト』と言われています。

ローレンス・ジョンストンがこの本を読んでいた記録が残されていること、またモーソンの本には庭の特色とともに写真が多くあり、その中の風景とヒドコート・マナー・ガーデンがとても良く似ている点が指摘されているのです。

ヒドコート・マナー・ガーデンの特徴『ROOM』

モーソンはこの本の中で、『庭のレイアウトは、ひとつの視点のみで理解できるような風景となるのではなく、連なる区画を提案すべきである。』と述べています。

また、『芸術はいつも好奇心を刺激し、常に探求心を誘発し、そしてそれらは決して終わることのない発見なのだ。』とも。

その言葉を実際に表現したかのように、ローレンス・ジョンストンが造り上げたヒドコート・マナー・ガーデンは、いくつもの『ROOM』と呼ばれる部屋で分かれ、それぞれがテーマにあった、そして個性のある風景を描いています。

ヒドコート・マナー・ガーデンの特徴であるこの『ROOM』はおよそ28の数もあり、中にはとても小さいサイズの『ROOM』も存在します。

通常の一般公開されている庭園の規模があまりにも大きく、自身の庭へはそのアイデアを取り入れることができないと感じる方も、ヒドコート・マナー・ガーデンの小さな『ROOM』のレイアウトや植栽はお手本にしたい点が多々あるのも、この庭園の魅力のひとつなのかもしれません。

『ROOM』ととけ合う風景

ヒドコート・マナー・ガーデンの特徴である『ROOM』は、垣根や石壁などを壁代わりに利用して区切り、ひとつひとつの部屋のように造られています。

『ROOM』の壁、つまり垣根や壁の向こう側に見える景色や、次の『ROOM』への入り口から見える風景は、訪れた人々に次の庭はどのようなものかを想像させる見せ方です。

これは優れたアート作品と同じように、鑑賞する人にも想像力を奮起させる、非常に芸術的な庭のつくり方と言えるでしょう。

ヒドコート・マナー・ガーデンは、その広大なひとつの庭園の中に、いくつものビジョンを持つ小さな庭があちこちに点在しています。

そしてそれぞれの『ROOM』が空や大地の景色ととけ合い、そのひとつひとつが見る人を触発し、驚かせ、また感嘆させてくれるのです。

ローレンス・ジョンストンの庭造りは家から庭に向かって進められており、まず主要な散歩道と、その周りを彩る景色を描き出すことからスタートしています。

彼はデザインと植栽ができるだけ左右対称になることに注意していました。これによって花の咲く季節によってその風景がしだいに変化していく様を現実にすることができました。

ローレンス・ジョンストンはまるで優れた画家のように、理想の風景を頭に思い浮かべることのできる芸術家であり、それを実現させる才能がありました。

それはおそらく、若い頃に母とともにヨーロッパを旅行したときに見た風景から、そして彼が1914年以前にイタリア北部に滞在した際に見た景色から得た着想ではないかと推測されています。

というのも、この美しく整えられたレイアウトはイタリアのルネッサンス式庭園の伝統を感じさせるものであり、彼はイタリア式庭園をイギリスでつくり上げることが夢だったのだろう、と言われています。

ローレンス・ジョンストンが庭園について書き残したものがないために、この推測は想像の域を出ませんが、仮に本当のものだとするとその理想は実現され、いまの時代でも見る人々を魅了してやまない作品として残されています。

当時のヒドコート・マナー・ガーデンの評価

ローレンス・ジョンストンのそのシャイで人見知りの性格からなのか、当時のヒドコート・マナー・ガーデンは、園芸家にしかその存在を知られていませんでした。

彼は慈善事業のため年に2~3回ほどガーデンを公開していたそうですが、そのことをあまり歓迎してはいなかったようです。彼のあまり人づき合いを好まない性格からすると、それは当然のことであったのかもしれません。

彼が庭造りを始めて20年もの年月が過ぎた1930年、『カントリー・ライフ』誌にヒドコート・マナー・ガーデンについての記事が2度にわたり掲載されました。

そこでは『並外れて優れた庭園 ー 20年も前にこの完璧なレイアウトを完成させており、それは今もなお、素晴らしい状態で維持されている。』と絶賛されています。

また、1934年には当時の著名なガーデンデザイナーであったラッセル・ペイジがラジオ放送でこの庭園について、『この場所は他のどの庭よりも私を魅了した……ジョンストンはマナーハウスの庭園のレベルを超え、大胆かつ予想もつかない植栽法を用いて庭を完成させた』と褒めたたえています。

ナショナル・トラストの管理下へ

1930年代には一般の人々にもその存在を知られるようになってきたヒドコート・マナー・ガーデンですが、1922年よりヘッド・ガーデナーとしてローレンス・ジョンストンとともにガーデンを造り上げてきたフランク・アダムズが1939年に亡くなります。

その影響もあるのか、あるいはほぼガーデンが完成したためなのか、1940年代にはジョンストンのヒドコートでの庭造りの時間は少しずつ減っていきました。

ローレンス・ジョンストンは、年老いた母が過ごすために南フランスに購入したセール・ド・ラ・マドンヌの荘園で過ごす時間が長くなり、1943年にはヒドコートを売りに出す決心をします。

1948年にはジョンストンは南フランスへ移住、ヒドコート・マナー・ガーデンはナショナル・トラストの管理で運営されることになりました。

姿を変えたヒドコート・マナー・ガーデン

ヒドコート・マナー・ガーデンを受け継いだのちの1955年に、ナショナル・トラストの優秀なプランツマンであり、またガーデン・アドバイザーであったグラハム・スチュアート・トーマスが庭の監督に任命されます。

彼はヒドコート・マナーの庭園が非常にレベルの高い園芸技術を用いており、また植栽については当時最高とも言える水準であったことを記しています。

しかし前にも述べたように、ローレンス・ジョンストンはヒドコート・マナーを売り渡した際に、その庭園についての記録はほとんど残されていませんでした。

つまりグラハム・スチュアート・トーマスは、残されたヒドコート・マナー・ガーデンの状態から植栽、レイアウト、デザインすべてを理解し、その上で庭の監督をしなくてはいけない状況だったのです。

また、ローレンス・ジョンストンはヒドコート・マナーの庭園を維持していくために、フランク・アダムズを筆頭に多くのガーデナーや農場労働者を雇い入れていました。

しかしナショナル・トラストがその管理を引き継いだときは、庭師の数はわずか5人であり、庭の整備や手入れは、そのチームで対応できるよう植栽が単純化しなくてはならない状況でもありました。

1955年から1980年までヒドコートの庭園の監督を任されていたグラハム・スチュアート・トーマスですが、彼の時代にはローレンス・ジョンストンが残した庭園はずいぶんとその様子は変わってしまいました。

グラハム・スチュアート・トーマスはその優れた才能によって、ガーデンを美しく蘇らせはしましたが、その際にあまりにも多く彼の主観が入ってしまったのではないかと言われています。

ジョンストンのたぐいまれなアイデアやコンセプトは、グラハム・スチュアート・トーマスがつくり上げた新しいヒドコート・マナー・ガーデンの中に埋もれてしまい、元の原型をあまり留めていなかったとも。


グラハム・スチュアート・トーマスが意図的に自分らしさを出したガーデンにつくり変えたという声もあるようですが、先に述べたように庭についての記述もない、そしてケアする人間も足りない状況であったために、ヒドコート・マナー・ガーデンの変化は仕方のないことだったのかもしれません。

しかしこのような変貌を遂げたのちに、ナショナル・トラストはローレンス・ジョンストンが造り上げた最初のヒドコート・マナー・ガーデンのレイアウト、デザイン、植栽法に戻すことを決定づけます。

その当時の庭の様子を知る人々や、働いていたガーデナーたちが残したメモ、そしてその頃の庭の写真を頼りに大規模に庭を修復、改装し、できる限り元のヒドコート・マナー・ガーデンを再現するべく、ナショナル・トラストは現在でも努力を重ねています。

ヒドコート・マナー・ガーデンは100年の歴史を持つガーデンではありますが、その中で持ち主のローレンス・ジョンストンが所有していた時期はわずか40年にすぎません。

現在ではナショナル・トラストの管理下での年月は60年を超え、ジョンストンがヒドコート・マナー・ガーデンにいた期間よりも長くなっています。

その間にガーデンはグラハム・スチュアート・トーマスの手によって変貌を遂げ、そしてまたローレンス・ジョンストンが造り上げた初期のガーデンに戻ると言う数奇な運命を遂げています。

今ではローレンス・ジョンストンが最初につくった庭園に戻り、その姿を今でも見ることができるヒドコート・マナー・ガーデン。次回は数々の『ROOM』に分かれるヒドコート・マナー・ガーデンの内部をご紹介します。