イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ ポールスデン・レイシー Vol.1 ~

ロンドンからわずか30マイル弱の場所、ドーキングを南西に向かったエリアにあるポールスデン・レイシー。エドワード朝の豪奢な邸宅と広大な敷地に広がる庭園は、ナショナル・トラストが管理している中でもとても人気の高い場所です。今回は、ポールスデン・レイシーのレポートをお届けします!

ポールスデン・レイシーとは

英国内で数多くの庭園がナショナル・トラストの管理下にありますが、その中でもとても高い人気を誇るのが、このポールスデン・レイシーです。

サリー州ドーキングの近く、グレート・ブッカムにあるエドワード朝様式の邸宅と広大な敷地の人気の理由は、ロンドンから列車で1時間もかからないという好立地条件もあるのかもしれません。

この場所に訪れてまず驚くのは、その広大な敷地です。なんと1,400エーカー(約567万㎡、東京ドーム121個分)もあるこの敷地はどこが終わりなのか分からないほど広く、入り口から邸宅までもかなりの距離があります。

邸宅の前にも大きな敷地が広がり、どこまでも続くゆるやかなアップダウンを描いた、いかにもイギリスらしいカントリーサイドの美しい風景を楽しめます。

ポールスデン・レイシーの歴史

ポールスデン・レイシーは1336年にこの場所に最初の家が建てられたことから始まります。
その後の持ち主として記録として残っているのが、アンソニー・ルースです。彼が1630年にこの土地を購入し、中世の家が1631年に再建されました。

のちの1723年、経済学者であり、政治家であったアーサー・ムーアがこの地を買い取り、1735年から1748年の間に家を拡張しています。このムーアの時代に、敷地を見下ろすロング・ウォークとテラスが建設されたと言われています。

劇作家であり政治家でもあったリチャード・ブリンズリー・シェリダンが1804年にこの地の新たなオーナーとなりました。

1818年にはジョセフ・ボンサーがこの土地を購入し、その時代の優れた建築家であったトーマス・キュービットの設計により邸宅を再建しています。ボンサーの時代にたくさんの木々が植栽され、庭園、土地が修復されています。

1853年にボンサーからポールスデン・レイシーを購入したのはサー・ウォルター・ロッククリフ・ファークワーでした。

彼はトーマス・キュービットが造り上げた構造は大部分を残しつつ、1853年から1870年の間にかけて、家を拡張しています。

そして1902年にポールスデン・レイシーは、ビジネスマン、公務員であったサー・クリントン・エドワード・ドーキンズの手に渡ります。

彼は建築家のサー・アンブローズ・マクドナルド・ポインターに建物の修復を依頼しており、その姿は現在でも確認することができます。

しかしドーキンズは完成直後に亡くなり、そして1906年、ロナルド&マーガレット・グレヴィル夫妻がポールスデン・レイシーの最後の持ち主となったのでした。

最後の女主人、マギー(マーガレット)・グレヴィル

このように、ポールスデン・レイシーは何度も持ち主が変わり、100年を超す期間同じオーナーが所持していたことはありませんでした。

また持ち主が変わるたびに屋敷や敷地は修復、改装が施されています。そんな歴史を持つこの邸宅と敷地の最後の女主人となったのは、エドワード朝の上流社会でその名を馳せたマギー(マーガレット)・グレヴィルです。

マギー・グレヴィルの出生は謎が多く、ある種の秘密のヴェールに包まれていました。1863年12月10日に生まれたマギーの母親はヘレン・アンダーソン、そして実の父親はウィリアム・マキューアン。

しかし実際の彼女の出生証明書では、父親の名前はウィリアム・マレー・アンダーソンとなっていたのでした。

彼女の実の父親であるウィリアム・マキューアンは、スコットランドはエディンバラでビール蒸留所のビジネスで大成功した、大金持ちの男性でした。

しかしヘレンがマギーを宿した時、二人は結婚しておらず、マギーは非嫡出子であったと言われています。

母ヘレンの評判、そしてマギーの出生の正当性を得るために、ヘレンはウィリアム・マキューアンの蒸留所で働いていた従業員、ウィリアム・マレー・アンダーソンと結婚することになったのでした。

父親であるマキューアンは、ヘレンとウィリアム・マレー・アンダーソンの二人をロンドンに送り、ヘレンはそこでマギーを出産します。

マギーが産まれたのちの1864年の春、戸籍上では夫婦となった二人はマギーを連れ、エディンバラへと帰ります。マギーの父、ウィリアム・マキューアンとヘレン・アンダーソンは、ウィリアム・マレー・アンダーソンが亡くなった1885年、マギーが21歳のときにようやく正式に夫婦となることができました。


マギーの実父については常に憶測がついて回っており、ウィリアム・マキューアンは彼女の継父として見られていました。

しかし想像するに、マギーはやはりウィリアム・マキューアンの実の娘であったのだろうと思われます。マキューアンがマギーを愛し、大切にしていたのは間違いのない事実と言えるでしょう。

こののちご紹介する、彼がマギーのために莫大なお金を費やしてきたこと、そして巨額の遺産を遺したことからで、それは容易に想像できるのではないかと思うのです。

ポールスデン・レイシーの購入へ

マギーは1891年、政治家であり、第2男爵の位を持つロナルド(ロニー)・ヘンリー・フルーク・グレヴィルと結婚します。ロニーは28歳、マギーは29歳の時でした。

こうしてマギーは父の莫大な財産をバックグラウンドに、そして夫の名誉ある地位を得て、ロンドンの社交界でその名を知られるようになったのです。

マギーの野望は、イギリス王室の人々を含む、イギリス上流社会で行われる最も豪奢なパーティーを開き、そしてその女主人になることでした。

夫婦はそれまでロンドンのメイフェアで暮らしていましたが、マギーの父、ウィリアム・マキューアンが二人のためにポールスデン・レイシーを購入してくれたのは、1906年のことでした。

ロニー・グレヴィルとマギーがポールスデン・レイシーの持ち主となってから、彼らはそれまでのオーナーと同じように邸宅と庭の改築に取りかかります。

リッツ・ホテルの建築家として知られるチャールズ・ミューズとアーサー・ディヴィスを雇い、邸宅をさらに豪華で優雅なものに改装し、また当時の優れた著名なインテリア会社であったWhite,Allom & Co.に依頼し、内装もそれに似合うよう一新させています。

庭園はマギーのパーティーに訪れる外国の大使や高官を感心させるために、クラシカルなイングリッシュガーデンが設計されました。

そしてこの時代のファッショナブルな娯楽であったゴルフを好んでいたマギーの希望によって、9ホールのゴルフ場、そしてテニスコートも建設されています。

夫、そして父の死

しかしこの邸宅と敷地の完成を待たずに、ロニー・グレヴィルは1908年に亡くなり、またマギーの父親であるウィリアム・マキューアンは1913年に亡くなります。

ウィリアム・マキューアンが遺した当時の金額で6500万ポンド、約91億円(!!)という莫大な遺産を引き継ぎ、マギーは億万長者の未亡人としてポールスデン・レイシーの女主人の道を歩んでいくことになるのでした。

英国上流社会の女主人へ

夫と父の死後、マギーはロンドンの邸宅とポールスデン・レイシーを行き来し、両方の家で豪華なパーティーを開き、そして海外旅行を楽しみました。

ポールスデン・レイシーがまだ修復が完了していないころの最初の賓客であったのはエドワード7世です。
また、映画『英国王のスピーチ』でも描かれたのちのジョージ6世、当時はヨーク公アルバート王子が1923年に結婚した際、妻のヨーク公妃殿下エリザベスと新婚旅行でこのポールスデン・レイシーに滞在しています。

マギーはポールスデン・レイシーが王室の人々にもふさわしい場所であるよう、建築、装飾、家具、アート作品のディスプレイのすべてにおいて、細部に至るまで自ら監督していました。

彼女の最も大きな喜びであったのは、王室の人々のために、または地位の高い人たちをもてなすことであり、それに彼女の情熱をそそぎ込みました。

ポールスデン・レイシーの邸宅の中には、王室関係、首相、政治家、権威のある高官たちが滞在していたさまざまな写真が残されています。

強烈なキャラクターであったマギー・グレヴィル

マギー・グレヴィルが催す贅を尽くしたパーティーに訪れる上流社会の人々は、ポールスデン・レイシーでの優雅なひと時をとても楽しんではいましたが、女主人であるマギーのパワフルなキャラクターや強烈な言動に対して、時には陰で、時には公然と反感を口にすることもあったそうです。

シシングハースト・カースル・ガーデンの創造主であり、ヴィタ・サックヴィル=ウェストの夫であるハロルド・ニコルソンは「毒で満ちた太ったのろま」と、とてつもなく辛辣な言葉でマギーを言い表しています。

また、著名なカメラマンであったセシル・ビートンはマギーのことを「貪欲で、ぞっとするようなヒキガエル」と、これもまた悪意を込めて表現しているのです。

ポールスデン・レイシーに新婚旅行で滞在したジョージ6世の妻、エリザベス王妃は「彼女はとても賢く、とても親切で、とても不親切で、とても頭が切れ、とても面白くて、いたずらで、リアルな人物であり本当に個性的。まったくグレヴィル夫人そのものでした」とマギーについて述べています。

マギー・グレヴィルは好き嫌いがハッキリしており、そうでなければ無関心、といったところもあったそうで、一度会ったら忘れることなどできない、とても強烈な個性の持ち主だったのではないでしょうか。

スノッブ、けれど愛情に満ちた女性

マギー・グレヴィルは俗物、それもスノッブ中のスノッブ、と言われていた女性ですが、それはたとえ本当のことだったにせよ、彼女の一面にすぎないのかもしれません。

ロニー・グレヴィルとの間に子どものいなかったマギーはとても犬を愛しており、彼女と一緒に写るたくさんの犬たちの写真が残されています。

マギーは1942年9月15日にその生涯をロンドンのドーチェスター・ホテルで終え、ポールスデン・レイシーはナショナル・トラストに寄贈され、マギーはポールスデン・レイシーの「レイディーズ・ガーデン」に埋葬されています。

そしてこの地に訪れた人が見ることができるのが、マギーの犬たちのお墓です。マギー自身のお墓よりさほど遠くない場所に、17匹の犬たちが眠っています。

マギーが生涯可愛がっていた犬たちのそばで永遠の眠りにつきたいと願ったのは、彼女の優しい気持ちの表れなのではないでしょうか。

また、マギーはとても使用人たちから好かれており、彼らの失敗には非常に寛大であったそう。
そしてマギーは数多くの豪奢な宝石を所有していましたが、彼女の死後に遺言として幾つかの宝石を女王エリザベス2世と、その母である王妃エリザベスに、そしてマーガレット王女へと遺しています。

エリザベス2世の孫にあたるユージェニー・オブ・ヨークが2018年の1月に結婚した際、彼女が付けていたティアラがそのうちのひとつにあたり、グレヴィル・ティアラと呼ばれる大変ゴージャスなものになります。

謎めいた出生を持ち、莫大な資産家である父、上流社会に通じている夫を持ち、その時代のハイソサエティの中心人物であったマギー・グレヴィル。

何度も持ち主が変わったポールスデン・レイシーの最後の女主人が造り上げた庭園は、この広大な敷地の中で記憶に残る印象的なエリアとなっています。

次回はナショナル・トラストの管理下にあるこのガーデンの魅力についてレポートをお届けします。