イングリッシュ・ガーデンを巡る旅~スモールハイス・プレイスを訪ねて~

魅力的なガーデンが数多く点在するケント州。ここにあまり名は知られていないけれど、小さく素朴なガーデンを楽しめる、スモールハイス・プレイスがあります。英国を代表する女優であったエレン・テリーの生涯と、味わい深い彼女の自宅やシアター、そしてガーデンをレポートします!

スモールハイス・プレイスとは

スモールハイス・プレイスは、ケント州テンダーデンに位置しています。
この家の持ち主であった当時の英国を代表する女優、エレン・テリーが晩年を過ごした自宅はかつて、『ポート・ハウス』と呼ばれていました。

これはスモールハイスが、イースト・サセックスとケントを流れる約35マイル(約56キロ)の川であった、リバー・ローザの前方に位置し、ここに非常に繁栄していた造船所があった事が由来しています。

スモールハイスのハイス(Hythe)は古い英語で、『上陸する場所』という意味だそうです。

最初にスモールハイス・プレイスを見て驚くのは、長い歴史を思わせる木造の建物と、その歪んで(?)いるかのような家の造り。

家の周囲にはナチュラルさいっぱいの花壇が取り囲み、壁につるバラが優しく可憐に這わせてある穏やかな風情はとても素敵です。

ガーデンとともに自宅内部も一般公開されており、エレン・テリーにまつわる展示物を見ることが出来ます。

建物内部に入ると思ったよりも小さく感じられる事にびっくり。
天井は低く、また床はギシギシと音を立て、この家が古い歴史を持ち、造られてから随分と時間を経ている事が分かります。

このスモールハイス・プレイスは、1947年よりナショナル・トラストが管理しており、建物は1950年5月、イングリッシュ・ヘリテッジによりグレードⅡに指定されています。

造船業としてのスモールハイスの歴史

スモールハイスは今でこそ穏やかな農業地帯としての風景を眺める事が出来ますが、かつてはテンダーデン、そしてライを繋ぐ重要な通路であった川、リバー・ローザがありました。

スモールハイスは、200人ほどのコミュニティとして発展し、彼らの殆どは造船業についていたそうです。

1410年にヘンリー4世のために100トンの船『マリー号』が造られ、そして1414年には1000トンを超える船『ジーザス号』がヘンリー5世によって造船が命じられています。

15世紀を通して、スモールハイスは成功した造船所としてあり続けましたが、16世紀になるとリバー・ローザの川底は泥でいっぱいになり、また、その他の地域でも新たな造船所が造られた事もあり、景気は陰りを見せ始めます。

最後に作られた大型船は、1546年、ヘンリー8世の命によって造られた『グレイト・ギャリオン号』となりました。

その後、1636年、大型台風がリバー・ローザの上流にあったダムを破壊し、主流の川の流れは水路が逆戻りしてしまいます。

それでも鉄や木材で出来た貨物のための通路として使われていたリバー・ローザは、増え続ける沈泥のために、大きなものはスモールハイスまで辿り着く事は出来なくなりました。

その結果、港や造船所としての活気は衰え、18世紀の終わりには、小さな船だけが航行するようになったのです。
そして20世紀の初めを最後に、海からスモールハイスへの船での航行は終わりを告げました。

恋愛と演劇、ふたつの世界を情熱的に生きた、エレン・テリーの生涯

1899年にこの家屋を購入し、その後亡くなる1928年までこの家に住み続け、死後にメモリアル・ミュージアムとして今も公開されているスモールハイス・プレイスの最後の住人、エレン・テリーはヴィクトリア朝を代表する女優として知られています。
本名デイム・アリス・エレン・テリー、通称エレン・テリーは、1847年、イギリスはコベントリー出身。

両親はともに喜劇俳優であり、11人いた兄弟・姉妹のうち5人は俳優に、そして2人は劇場の経営に携わったという演劇一家に生まれています。
エレンが9歳、1856年にロンドンのプリンセス・シアターにて行われたシェイクスピアの『冬物語』のマミリアス役でデビュー。その後も数々の舞台で活躍し続ける、女優としての人生が始まります。

16歳、初めての結婚

エレンは同じく女優であった3歳年上の姉、ケイトと共に、著名な芸術家であったジョージ・フレデリック・ワッツに肖像画を描いてもらい、ここで二人は恋に落ちました。

ワッツはエレンにプロポーズし、エレンはワッツのその洗練された芸術性や、エレガントなライフスタイルに感銘を受け、1864年に二人は結婚します。

しかしエレンはその時まだ16歳であり、ワッツは30歳も年上の46歳でした。
二人は僅か10か月で別居となりますが、エレンはこの短い期間に、その時代の文化を代表するようなきらびやかで、才能あふれる人々に出会います。

芸術家たちのアイコンに

そこには詩人のロバート・ブラウニング、アルフレッド・テニスン、のちに首相となるウィリアム・グラッドストンや政治家、小説家でもある初代ビーコンズフィールド伯爵のベンジャミン・ディズレーリ、写真家のジュリア・マーガレット・キャメロンが含まれ、キャメロンが撮影したエレンのポートレートは非常に有名なものとなりました。

エレンがこのような、当時の新進的な人々と知り合うようになったのは、ワッツが描いたエレンの肖像画や、二人の30歳の年齢差を超えた恋愛関係が、この時代の詩人や画家といったアーティストたちの中で話題となっていたからです。

エレン・テリーは若くして、ヴィクトリア朝の美術家や批評家のグループであるラファエロ前派や、オスカー・ワイルドを含む耽美主義たちの、アイコン的存在となりました。

二人の子供

ワッツとの結婚で、一度は舞台から遠ざかったエレンですが、再び舞台に復帰。
そして1868年、21歳の時に14歳年上の、進歩的な建築デザイナーであり、また随筆家でもあったエドワード・ウィリアム・ゴッドウィンと交際を始めます。

二人はルートンの近くにあるハーペンデンへ移住し、エレンはその際に舞台から遠ざかります。
エレンとワッツは別居していたものの、まだ結婚したままであり、二人は結婚をすることは出来ませんでした。

しかしエレンは1869年に娘のイーディス・クレイグを、そして1872年に息子のエドワード・ゴードン・クレイグを授かります。
二人の子供の苗字が『クレイグ』となっているのは、非嫡出子である事の汚名を避ける為でした。

それでもこの時代において、彼らの婚姻外の同棲と子供の出産は、大変スキャンダラスなものとして扱われていたと言われています。

なお、娘のイーディスは舞台監督、またコスチュームデザイナーとして活躍しています。

また、彼女の息子であるエドワード・ゴードン・クレイグは俳優、作家、舞台美術監督となり、情熱的なアメリカ人の舞踏家である、イサドラ・ダンカンの恋人となりました。

舞台の上で演じる事を生業とし、恋愛に情熱的な母と同じような女性に惹かれたのかもしれませんね。

2度目の結婚

結婚しないまま二人の子供を得たエレンとゴッドウィンですが、彼らの交際は1875年に終わりを告げ、エレンは前年の1874年から再び演劇界に戻ります。

1877年、エレンは30歳で最初の結婚相手であるワッツと正式に離婚。
同じ年に俳優でジャーナリストのチャールズ・クレバリング・ワーデル・ケリーと、2度目の結婚をしますが、この結婚も長くは続かず、4年後の1881年に二人は別れています。

公私共のパートナー

1878年、エレンが31歳の時に、ライシアム・シアターでヘンリー・アーヴィングの劇団に主演女優として参加し、間もなく彼女は英国を代表する、シェイクスピアの主演女優として見なされるまでになります。

やがてエレンはアーヴィングとの交際を始め、二人は恋愛関係において、また仕事上でもパートナーとなりました。

しかしアーヴィングは別居こそしているものの、まだ事実上結婚している妻がいたのですが、二人はその後も恋愛関係を続けています。

のちにアーヴィングはエレンの二人の子供のゴッドファーザーをも務め、彼らは舞台では共に共演し、劇団を統治し続けます。

そして休暇には一緒に過ごし、しばし旅行へと出かけ、公私ともに二人での時間を大切にしていたようです。

スモールハイス・プレイスとの出会い

エレンがアーヴィングと交際していた頃、二人はライからテンダーデンへ移動している際に、このスモールハイス・プレイスを見かけます。

エレンはこの家屋と土地にひと目で恋に落ち、もし購入が可能になったら教えて欲しいと頼み、それから数年後の1899年に家が売りに出された事を知ります。

スモールハイス・プレイスを購入したエレンは、ロンドンでの忙しい俳優業や都会での喧噪を逃れ、静養するための場所として、心からその場所を慈しみました。

エレンはバラを好み、ガーデンには50種類も超える品種を植え、田舎での生活を楽しんでいたそうです。

3度目の結婚

その後も彼女は演劇活動を続け、また、恋愛に対する情熱を失う事もありませんでした。

エレンは1907年3月22日、60歳の時に、アメリカ公演で共演したアメリカ人の俳優、ジェームズ・カル―と結婚しています。

驚く事にこの結婚は、エレンの最初の結婚と逆のパターンで、彼はエレンより30歳年下でした。しかしこの結婚生活も短く、二人の関係は僅か2年後で終わりを告げています。

彼女は舞台とともに、1916年からは映画にも出演し成功を収め、イギリスやアメリカでシェイクスピアについて講演も行っています。

大英帝国勲章受章

1922年にエレンは、デイム・グランド・クラスを受賞しています。

これは1917年、ジョージ5世が創立した、経済人や文化人、芸能人やスポーツ選手など、また社会奉仕活動等に貢献した人々に贈られる勲章で、エレンが受賞したものは、その大英帝国勲章の中の最も偉大な賞となります。

これを受賞したのは女優としては2人目であり、またこの賞を得た女性は、名前に『デイム』を付ける事が許されています。
これは名称に「ナイト」が含まれる、いわゆる「ナイト爵」の一種で、英国籍を有していれば男性ならサー、女性ならデイムの敬称が付ける事が出来ます。

彼女の正式名が”デイム”・アリス・エレン・テリーであるのは、この名誉な賞を得たからなのです。

エレンの死後

1928年7月21日、エレンが81歳の時、彼女はスモールハイス・プレイスで脳溢血のため、その生涯を終えました。

エレンの死後、娘のイーディスにより、スモールハイス・プレイスはエレンの非凡な人生と、その業績を記念するミュージアムへと生まれ変わります。
最初は母と同じ俳優からスタートし、その後監督、コスチュームデザイナーなどを兼任していたイーディスは母の為のメモリアル・ミュージアムを建てる為に奔走します。

イーディスはスモールハイス・プレイスのエレンの寝室をそのまま残し、今もなお、その当時のままの姿を見ることが出来ます。

訪れた際に内部の案内して下さったボランティアの方が言うには、正にエレンが亡くなった朝と同じ状態で保たれているそうです。

また、シッティングルームとダイニングルームでは歴史的な展示物を展示しています。
イーディスはまた、庭にある17世紀の藁ぶき屋根の納屋を劇場、バーン・シアターへと改装し、ここでエレンの業績を称える記念公演を行う事にし、この催しは今も受け継がれています。

バーン・シアター

スモールハイス・プレイスを訪れたなら、バーン・シアターは必見となります。

16世紀に建てられたという藁ぶき屋根の納屋を改装した小さな劇場は、建物自体がとてもロマンティック!

時代を感じさせる外見とマッチした、情緒ある内部はため息が出るほど素敵です。

舞台も本当に小さいものですが、これだけの近さで観る事の出来る芝居は迫力満点に違いありません。

エレンの娘、イーディス・クレイグは1929年の7月31日、エレンの命日を記念して一般公開する事を目指し、その公演のためにイーディスは戯曲を選び、コスチュームを作り、セットのデザインと演者のリハーサルを監督したそうです。

スモールハイス・プレイスのガーデン

スモールハイス・プレイスのガーデンは、他の有名なイングリッシュ・ガーデンに比べると非常に素朴で、サイズ的にも小さなものとなります。

敷地は広く、もちろん個人の庭としては非常に大きいのですが、ガーデンは昔ながらのコテッジガーデンらしく、小道には石畳と芝生を使い、シンプルでコンパクトにまとまって、ナチュラルな雰囲気にあふれています。

その素朴な雰囲気は、他の大きなガーデンを見慣れていると、「これだけなの?」と少々小さく感じてしまう事もあるかもしれません。

しかしあまりにも大きなサイズのガーデンでは、自分の庭にそのアイデアを取り入れたいと思っても、なかなか難しいもの。

スモールハイス・プレイスのこじんまりとしたガーデンは、コテッジガーデンの庭づくりを考えている方に、きっと参考になるのではないでしょうか。

敷地の奥には納屋があり、ここにはエレンの娘、イーディスについての展示があり、前方には小さなハーブガーデンが備えられています。

こちらも本当にこじんまりとした可愛らしいものなのですが、小さい庭でハーブガーデンを作りたいと思っている方にヒントになるレイアウトだと思います。

小さな納屋と素朴なハーブガーデンの組み合わせがとても素敵で、庭から少し離れた場所にあるのですが、忘れずにチェックしたいエリアです!

幼い頃から女優として舞台に立ち、3度の結婚、また数々の情熱的な恋愛を重ねたエレン・テリー。
ロンドンで派手な社交生活を好んでいたのかと思いきや、彼女はカントリーサイドでの暮らしを心から楽しんでいたそうです。
この静かでひっそりとしたスモールハイス・プレイスの家屋やガーデンに滞在すると、そんなエレンの気持ちが理解出来そうな気がしてきます。

賑やかなロンドンでの生活を経て、エレンが得た彼女の真のホームであったスモールハイス・プレイスは、小さいながらもどこかほっとする事の出来る穏やかな場所。

手をかけられ過ぎていない、素朴でナチュラルなガーデンもきっと心を落ち着かせてくれるはず。決してゴージャス、あるいは華やかというわけではないけれど、とても可憐で愛らしい、おすすめのガーデンです。

敷地内ではカフェも常設しており、ここで簡単なお茶や軽食を取る事が出来ます。ガーデンの多いケント州ですから、他のガーデンとのカップリングとして滞在しては如何でしょうか。

スモールハイス・プレイスへの行き方

スモールハイス・プレイスの最寄りの駅は3つあり、①Ryeライ、②Appledoreアップルドア、③Headcornヘッドコーンとなります。

ライとアップルドアまでは、ロンドンはセント・パンクラス駅発、アッシュフォードで1回乗り換えし、列車で約1時間20分前後。
アップルドアの方がロンドンからは近い駅となりますが、ライの方が観光には便利です。

ヘッドコーンまではロンドンはチャリング・クロス駅から乗り換えなしで約1時間10分。どの駅からもタクシーで約20分ほどかかり、またタクシーは予約をしておいた方が無難です。

ちなみにケント州で著名なガーデンである、シシングハースト・カースル・ガーデンから、このスモールハイス・プレイスまでは、距離にして約10.5マイル(約17キロ)、タクシーでは20分ほどで移動出来るので、ふたつのガーデンを一緒に回るコースもおすすめです。

タクシーの予約方法は、『イングリッシュ・ガーデンを巡る旅~ケント地方おすすめのB&B Vol.2~』を参考にして下さいね。