イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ヒドコート・マナー・ガーデン Vol.1 ~

イングリッシュガーデンについて語るときに、決して欠かすことのできない存在であるヒドコート・マナー・ガーデン。今回はシシングハースト・カースル・ガーデンと並び、世界中のガーデナーの憧れであり、またイングリッシュガーデンの聖地とも言える場所のレポートをお届けします!

ヒドコート・マナー・ガーデンとは

ヒドコート・マナー・ガーデンはイギリスのカントリーサイドとして多くの人々を魅了する地域、コッツウォルズに位置しています。

コッツウォルズ・ヒルズの北端にあるヒドコート・バートリム村にあるこの庭園の大きさは約10.5エーカー、4ヘクタール(40,000㎡)となります。

これは敷地全体の大きさではなく、ガーデンの大きさであり、東京ドームの大きさが約4.7ヘクタール(46,755㎡)ですからどれだけこの庭園が大きいか、容易に想像できるかと思います。

ヒドコート・マナー・ガーデンはイギリスでは最も有名なガーデンのひとつとなりますが、この庭園を造り上げたのはフランス生まれのアメリカ人、ローレンス・ジョンストン。

非常に裕福な家庭に生まれ、英国の軍人となった彼はこの地で後世に残る庭園を築き上げました。彼がヒドコートにガーデンを造り始めて100年を超えますが、未だに多くの人を魅了してやみません。

現在ではナショナル・トラストの管理下に置かれ、毎年175万人の来場者があるというヒドコート・マナー・ガーデンの魅力と歴史についてご紹介します。

ガーデニングに魅せられた男 ー ローレンス・ジョンストン

ヒドコート・マナー・ガーデンを造り上げたローレンス・ウォーターベリー・ジョンストンは1871年10月12日、フランスはパリで生まれました。

彼の父親であるエリオット・ジョンストンはボルティモアの裕福な銀行家であり、エリオットの兄弟であるヘンリーは、アメリカの15代大統領であるジェームズ・ブキャナンの姪、ハリエット・レーンと結婚しています。

ちなみにジェームズ・ブキャナンは生涯独身であり、大統領時代の雑事は姪のハリエット・レーンが受け持ちました。

そのため彼女は大統領夫人ではありませんでしたが『ファースト・レディ』と呼ばれ、ホワイトハウスでもとても人気があったと言われています。

影響力、支配力を持った母 ー ガートルード・ウィンスロップ

ローレンス・ジョンストンに最も近い人物であり、また終生をともに過ごした彼の母親、ガートルード・ウィンスロップは彼女もまた、ロープ製造業で成功を収めた非常に裕福な家庭の出身です。

ガートルードは1870年にエリオット・ジョンストンと結婚し、ローレンスを長子として二男一女を授かりますが、長女は若くして亡くなります。

二人の結婚は10年を過ぎた頃から崩壊し始め、ローレンスが12歳のときに離婚。その後ガートルードは1887年にチャールズ・フランシス・ウィンスロップと再婚します。

しかしこの結婚も長くは続かず、やがて最初の結婚と同じように、二人は離婚へと至ります。

ガートルードは息子を連れ、ヨーロッパとアメリカへの行き来を繰り返し、一か所に定住することはありませんでした。ローレンスの教育は家庭教師が受け持ち、母と息子とともに旅行を繰り返す日々を送りました。

母とともにあちこちを移動する月日を子ども時代に送ったせいなのでしょうか、ガートルードは非常に支配的であったと言われ、ローレンスは常にその傍に寄り添う人生を送ることになります。

イギリスの国籍を取得

1893年、ローレンスはケンブリッジのトリニティカレッジに入学し歴史を専攻し、1897年に卒業しています。彼は翌年にイギリス北部にあるノーザンバーランド州で農業を学ぶ生活を送ります。

1900年の1月にイギリス国籍を取得したローレンスは、イギリス軍のボランティア軍隊に加わり、第2次ボーア戦争に参加します。

のちに彼は植物採集者、プラント・ハンターとしてもその名を知られるようになりますが、このときの南アフリカ滞在でその地の植物に興味を持ったきっかけとも言われています。1902年、ローレンスはノーザンバーランドの軽騎兵となっています。

ヒドコート・マナーを購入

ガートルード・ウィンスロップと息子ローレンスは、ともにイギリスで定住できる場所を探していましたが、ヒドコート・バートリム村のそばに約287エーカーの敷地とマナーハウスがオークションに出されているのを知ります。

残された歴史によると、ヒドコート・マナーは1539年ごろ、ヘンリー8世による修道院解散が行われるまではウィルトシャーのブランデンストークの小修道院が所有していました。

17世紀には裕福な農家の邸宅として使われていたヒドコート・マナーはフリーマン家によって継承され、幾度か持ち主が変わったあとの1907年にジョン・タッカーによって売りに出されます。

広告が出されたザ・タイムズ紙には『美しい農家、石造りの玄関ホール、高級なオーク階段、3つの寝室、8つのゲストルーム、オフィス、芝生と大きなキッチンガーデン、そして灌木のある庭とサマーハウスがあります。』と詳細が掲載されています。

オークションの結果、ローレンスはヒドコート・マナーを7,200ポンドで購入しますが、それまでこの村落は非常に静かな農村でした。

しかしローレンスと母、ガートルードがこの敷地を購入したことによってこの村も、そしてローレンス・ジョンストンの人生も大きく変わることになったのでした。

ガーデニングの魅力にとりつかれて

ガーデナーの方々は、自分がいつ、ガーデニングに興味を持ったか覚えていますか?

小さい頃から花や植物が身近にあり、子どものころからガーデニングをしていたという方もいれば、本や雑誌、あるいは誰かの影響でガーデニングに目覚めた、という方もいると思います。

けれどある日突然、ガーデニングの魅力に魅せられてしまったというケースもあるのではないでしょうか。ヒドコート・マナー・ガーデンを造ったローレンス・ジョンストンもその一人だったのかもしれません。

ローレンス・ジョンストンは1907年にヒドコート・マナーを購入してからその邸宅を住みやすいように改装し、さらに庭に着手し始めます。

それはまさに没頭するという言葉がぴったりだったようで、村の人々に庭師の仕事を与え、彼のビジョンの庭を造り上げようと奮闘します。

しかし庭造りには多くのお金がかかるもの。小さい庭でもそうなのですから、ヒドコート・マナーのような巨大な敷地であれば、どれほどのお金がかかったのでしょうか。

ローレンス・ジョンストンの母親、ガートルード・ウィンスロップは彼をカントリーサイドに住む英国紳士に、そして裕福な農夫にしたかったようで、ローレンスがガーデニングに夢中になることを快く思っていなかったそうです。

また、彼が湯水のごとくお金をガーデンにそそぎ込むことも不快であったようで(そのお金はガートルードのものですから当然かもしれません)、再三の注意も聞かないローレンスに腹を立て、ヒドコートを売りに出す計画もあったようです。

ヒドコート・マナー・ガーデンが消え去っていたかもしれないガートルードの計画が実行される前に、1914年、第一次世界大戦が勃発します。

戦場へ、そして負傷

軍人であったローレンスは第一次世界大戦に戦場へと赴くことになりました。この時代、イギリスの多くのガーデンは廃止され、花々は掘り起こされてその代わりに野菜を植えるように命じられています。

もちろんローレンスも、ヒドコート・マナーでの庭造りは中断せざるを得ず、軍隊に再加入し、ノーザンバーランドの軽騎兵としてフランダース地方で戦います。

しかしここで彼は右肺を撃ち抜かれ、瀕死の重傷を負うことになってしまいます。

九死に一生を得たローレンスですが、ひとつだけ良かったことと言えば、ローレンスの重傷のために母親のガートルード・ウィンスロップは大きな衝撃を受け、ヒドコートを売りに出すことはするまいと決心したそうです。

手術のためロンドンの病院に送られたローレンスは、回復するあいだRHS(英国王立園芸協会)のリンドレ―・ライブラリーで、植物や園芸に関する多くの本を借りて読んでいたことが図書館の貸出記録に残されています。

再びガーデン造りへ

傷の回復後、ローレンスは戦地には戻らず、1919年4月に軍隊を退役し、ヒドコートへ帰ります。ガートルード・ウィンスロップはさらに農地を購入し、ローレンスが現在のヒドコート・マナー・ガーデンの境界まで拡張できるようにしています。

1920年代には彼のガーデンのために働くフルタイムのガーデナーは12人となり、中でも1922年にヘッド・ガーデナーとしてフランク・アダムズが来たことによってヒドコート・マナーの庭園はさらに洗練されたものになります。

それまで多くの有名な庭園で仕事をしてきたアダムズは、ジョージ5世の時代にウィンザー城の庭園で働いていた経験がありました。

二人が出会い、ヒドコート・マナー・ガーデンがさらに優雅となり、その完成度が確立される時代の始まりは、アダムズが32歳、ジョンストンは50歳のことでした。

それまで非常に勉強熱心であり、素晴らしい発想とアイデアに恵まれ、またガーデニングに惜しみなくお金をそそぎ込むことのできたローレンス・ジョンストン。

しかし彼にとってはこれが初めての庭園造りであり、また彼の庭のデザイン、レイアウトや植栽、そしてガーデニングは多くは本からの知識や知人からのアドバイスをもとに始めたものでした。

ローレンスの天才的なビジョンと情熱に、アダムズの優れた技術と経験、専門知識と努力がプラスされ、ヒドコート・マナーのガーデンはさらに美しく変化を遂げていくのでした。

プラント・ハンターとしての活躍

ローレンス・ジョンストンの情熱はガーデニングだけでなく、植物採集、プラント・ハンティングにも向けられました。

自分自身で新しい植物を求めて世界を広く旅しただけでなく、彼は多くのプラント・ハンターをサポートしています。

1922年、エドワード・オーガスタス・ボウルズとアルプスに向かい、1923年にはアンデスに向かったW.T.ゲーテを支援、1926年にはビルマへ行ったフランク・キングドン=ワードを後援しています。

1927年にはローレンス自身が南アフリカに行き、さらには1930年には中国へと向かっています。

ローレンスの持ち帰った種や植物はイギリスでは今ではよく見られるものであっても、彼が初めて取り入れた品種も多く、また植物の名前にもローレンスやヒドコートの名が付けられているものもたくさんあるのです。

フランスの庭園 セール・ド・ラ・マドンヌ

1920年代に年老いて来たガートルード・ウィンスロップのために、二人は暖かい南フランスのマントンに土地と別荘を購入し、冬はそこで過ごすようになります。

セール・ド・ラ・マドンヌと呼ばれるこの別荘に、ローレンスは新たに庭園を造り始めます。ローレンスが採取してきた貴重な珍しい植物は、イギリスの寒い気候では育たないものも多く、彼はそれらを南フランスで育てています。

彼はこの場所で11人の庭師を含む、23人の使用人を雇っていたそうです。ガートルード・ウィンスロップは1年の殆どをこのマントンで過ごすようになりました。

ローレンスはイギリスの気候が良い夏の間はヒドコート・マナーで送り、10月になると母のいるマントンへ移動するという暮らしを続けています。

母の死

1926年、ガートルード・ウィンスロップはその一生をマントンで終え、彼女の遺体はヒドコート・マナーから1マイル離れた場所に埋葬されました。

体が弱っていた母の死は予期されていたことでしたが、彼女の遺言でローレンスに資産を一度にすべてを渡すのではなく、定期的に与えられる手当として残されたことにローレンスはショックを受けます。

もちろんその手当は一般の人々からすれば莫大なものであり、彼の生活が不自由を感じることはまったくなく、ローレンスは依然裕福な人であり続けました。

ガートルードの遺志はもしかすると、すべての財産を一度に渡してしまうと、ローレンスがそれをガーデニングにそそぎ込んでしまうことを危惧した母の思いからかもしれません。

しかしこの遺言は、ガートルード・ウィンスロップが最後まで息子ローレンスを支配しようとしていたとも思える、象徴的な出来事にも感じられてしまうのです。

ナショナル・トラストの管理下へ

1940年代に入り、70代となったローレンス・ジョンストンは、ヒドコート・マナーよりも長い時間を温暖な気候の南フランスにあるマントンの別荘、セール・ド・ラ・マドンヌで過ごすようになります。

イギリスの重税を考慮したローレンスは南フランスへの移住を考えますが、彼が造り上げた庭のあるヒドコート・マナーを、ナショナル・トラストに管理してもらうことを決断します。

しかし彼は母の遺産の一件で受けたショックもあったせいなのでしょうか、ヒドコート・マナーをナショナル・トラストに寄贈するのではなく、買い取ってもらおうと考えます。

1943年にはナショナル・トラストのカントリーハウス委員会の秘書をしていたジェームズ・リーズ=ミルンに接触し、その旨を伝えます。

しかし寄贈ではない庭園を買い取るのに躊躇していたミルンは返事を渋ります。けれどもその数年後、ミルンは父と共にヒドコート・マナーの庭園に訪れた際にその完成度に感嘆し、残すべき価値のある庭園であると実感します。

そして長い審議の結果、1948年、ナショナル・トラストでは運営以来初めて庭園を買い取り、基金で管理、そして運営されることが決定されたのです。

ローレンス・ジョンストンの友人たち

非常に裕福な男性であり、またその才能を遺憾なく発揮し優れたガーデンを造り上げたローレンス・ジョンストン。

彼はその時代のきらびやかな人々を友人関係を持っていたとも言われていますが、彼を知る誰もがローレンスはとてもシャイで、人見知りが激しく、決して友人の多い人間ではなかったことを明言しています。

長く軍隊にいたにも関わらず軍人との付き合いはなく、交友のあった人間はすべてガーデニングに興味を持つ人々ばかりでした。

彼は男性との付き合いよりも女性の友人と過ごす時間が多かったと言われ、アメリカ人の作家であるイーディス・ワートン、アメリカ人の女優であるメアリー・アンダーソン・デ・ナヴァロなどと友人になりました。

しかし彼と親しい友人として知られているのは裕福層のガーデンデザイナーであったノラ・リンジーです。

ノラと、そして植物採集に関心があった彼女の娘であるナンシー・リンジーとも、ローレンスは非常に親しい間柄となりました。

ローレンスは男性との交友関係は少なく、親友と呼ばれる人もいなかったようで、さらにどちらかと言えばあまり良い関係を築くことはなかったとも言われています。

ともに中国へ植物採集へ行ったエディンバラ王立植物園で働いていた植物採集者のジョージ・フォレストは、同僚に送った手紙の中で『ジョンストンほど同行するのに不快な人間はいない』と書き記しています。

『彼は男とも言えず、独身貴族でもない。ただ男の性を受けただけの、甘やかされた、オールドミスのようなものだ』と。

あまりにも辛辣な言葉ですが、彼は海外に植物採集に行く際も、イギリスでの豪奢な生活スタイルを保持したり、また彼の審美眼にかなわなければ海外に赴いたと言っても、見つけた植物を採集することはなかったそうで、そのスノッブさに辟易した人々も少なからずいたようです。

生涯独身であったローレンス・ジョンストンは多くの人々にゲイと思われており、またそれとは裏腹に彼が愛情を注いだノラ・リンジーの娘のナンシーは、実は彼の娘ではないのかと憶測されたこともあったそうです。

あまり人に打ち解けることのないローレンスの最も近しい存在だったのは、常に彼と一緒にいた犬たちだったと言われています。それを示すかのように、残されたローレンスの写真の多くには彼のそばに犬たちが一緒に写っています。

ローレンスは南フランスへ移住したあとに、訪れる人々のために開いたパーティーでは使用人に『退屈で馬鹿馬鹿しい人間たちとこれ以上話していたくない』と言い、頭痛がするので先に休むとゲストたちには言い残し、ガーデンで一人過ごすことも度々あったと言われています。

ヒドコート・マナー・ガーデンをナショナル・トラストへ譲り渡し、南フランスへ移り住んだローレンスは1958年、セール・ド・ラ・マドンヌで亡くなります。

彼の遺体はイギリスに運ばれ、ヒドコートに眠る母親のガートルード・ウィンスロップの隣に埋葬されました。

ローレンスはセール・ド・ラ・マドンヌを親しい友人であったノラ・リンジーの娘、ナンシーに遺しますが、残念ながらナンシーは庭園を維持することができずに売り渡しています。

また、彼は亡くなった際に莫大な財産が残されましたが、その中の一部、当時のお金で100万フランを南フランスでの彼の使用人たちに渡すように手配しており、この事実から彼らとはとても良い付き合いがあったことが分かります。

生涯独身であり、人付き合いを好まず、親しくなるのは限られた人間だけであったローレンス・ジョンストン。彼のすべての情熱はガーデニングに向けられていたかのようにも思えます。

イギリスで最も有名なガーデンのひとつを、一代で造り上げたリッチなアメリカ人。彼は残された記録や証言にあるように気難しく、スノッブな人間であったのかもしれません。

あるいはまた、世間に噂されていたように母の影響力から逃れられなかった子ども、甘やかされた裕福な人間だったのかもしれません。

けれどローレンス・ジョンストンが造り上げたガーデンは間違いなく後世に多大な影響を与え、100年以上の月日が経った今も、ガーデンを愛する多くの人々の心をとらえ続けています。

彼の気性や人格については他人がとやかく言うことではないのでしょう。ヒドコート・マナーの庭園を見れば、彼がどんなに才能にあふれ、そしてどんなに庭造りを愛していたのかが、ガーデナーの方であれば、ひと目で実感できるに違いありません。

ローレンス・ジョンストンがヒドコート・マナーに移り住んだ1907年から、ナショナル・トラストの管理下になるまでの1948年の約40年間よりも、現在ではナショナル・トラストが管理している月日の方が長くなっています。

彼の造り上げたヒドコート・マナー・ガーデンはどのようなものであり、またどんな魅力に包まれているのでしょうか。そしてその庭を維持するナショナル・トラストの努力とは、どのようなものなのでしょうか。

次回はヒドコート・マナーの庭園についてレポートをお届けします。