イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ キフツゲート・コート・ガーデンズ Vol.1 ~

エレガントで優雅な邸宅、周りを取り囲むロマンティックな庭園、そしてドラマティックな地形を活かしたレイアウト。キフツゲート・コート・ガーデンズは、多くのガーデン・ファンが憧れる、英国の中でも最も著名なイングリッシュガーデンのひとつです。今回はキフツゲート・コート・ガーデンズの魅力についてレポートします!

キフツゲート・コート・ガーデンズとは

キフツゲート・コート・ガーデンズは英国の美しい田舎の景色が堪能できるエリアである、コッツウォルズ地方に位置しています。美しい邸宅と庭はイヴシャムの谷を北西に見下ろすことができる丘の上にあり、庭からイギリスらしいカントリーサイドを一望できる場所。

そして南東には、以前ご紹介したヒドコート・マナー・ガーデンがあり、歩いて5分ほどで到着することができます。イングリッシュガーデンを語るときに欠かせない、このふたつの庭園が隣同士に位置しているのはまるで奇跡のような偶然です。

来場者のほとんどの方が、同日にこのふたつのガーデンに滞在しており、ほんの少し移動しただけでふたつの異なる類まれなガーデンを鑑賞できるのは、ガーデンファンにとってはとても幸運なことと言えるでしょう。


隣同士のガーデンとはいっても、キフツゲート・コート・ガーデンズは、ヒドコート・マナー・ガーデンとはまた違った魅力と歴史を持っています。

男性であるローレンス・ジョンストンが1代で造り上げ、現在はナショナル・トラストの管理下にあるヒドコート・マナー・ガーデンとは異なり、キフツゲート・コート・ガーデンズは女性が造った庭園を3世代に渡って、すべて女性のオーナーが継承している庭園です。

祖母から母へ渡されたガーデンは娘へと引き継がれ、このガーデンは今もなお伝統を守りつつ進化を続けています。

代々女性が携わってきただけあって、庭園はとてもロマンティックな雰囲気に満ちています。カラーリングも優しい印象に満ちており、レイアウトもとてもエレガントです。

キフツゲート・コート・ガーデンズはガーデナーの方でなくとも、エントランスに入った瞬間から恋に落ちてしまう場所なのではないでしょうか。

キフツゲート・コート・ガーデンズに訪れる人々の目的は、もちろんガーデン鑑賞となるのですが、エントランスからまず視界に飛び込んでくる邸宅の素晴らしさにも目を奪われるに違いありません。

上の写真に見えるこの建物はキフツゲート・コートという名称で、その前は小さなナーサリーとなっており、キフツゲート・コート・ガーデンズで用いられている植物を購入することができます。



この建物の前で入場料を支払い、内部に入る仕組みになっています。ここには小さなギフトショップ、そして庭の入り口にはカフェがあります。

前庭は広い駐車場となっており、滞在した日には次から次へと入場者が来訪し、大型バスも停車していて、この庭の人気の高さを垣間見るようでした。

キフツゲート・コート・ガーデンズの歴史

この趣きのあるロマンティックな邸宅、キフツゲート・コート。この邸宅があるからこそ、美しい庭がさらに輝きを増しているのがお分かりいただけると思います。

この場所から北西に1キロすすんだ場所にあるミッケルトンという村に住んでいた、ウォルウィン・グレイヴス(1744-1813)が自身の邸宅であるミッケルトン・マナーの正面部分に高いポーティコを建てたことから、キフツゲート・コート、そして庭園の歴史が始まります。
ちなみにポーティコとは、上下の写真でみるようにポーチの上に円柱の柱があり、その上部に屋根がある構造のことを指します。

エレガントでありながら壮大な印象をもたらすポーティコは、正面の入り口の雨風を避ける役割も担っており、英国では17世紀から18世紀に流行となりました。この時代に建設された多くのカントリーハウスに、その姿を見ることができます。

ウォルウィン・グレイヴスの子孫であるシドニー・グレイヴス・ハミルトンは1887年から91年にかけてこのミッケルトン・マナーを大きく改装します。

その際に、このポーティコを含む正面部分と図書館として使われていた建物を現在の場所に移し、キフツゲート・コートを建設します。この移動のために特別に鉄道を建設したというのですから、莫大な費用がかかっていたことがわかります。

キフツゲート・コート・ガーデンズの始まり

キフツゲート・コートの美しい庭園は、ジョン・ブキャナン・ミューアが狩猟をする土地として1918年に、ふたつのポーティコを持つエレガントな邸宅、キフツゲート・コートとその敷地を買い取ったことからその物語がスタートします。

ジョン・ブキャナン・ミューアの妻であるヘザー・ミューアは、当時ガーデニングの知識はまったくなかったにも関わらず、この敷地に庭を造ることを決意します。

経験のないヘザー・ミューアがなぜ庭づくりに着手したかというと、隣に立地するヒドコート・マナー・ガーデンの創造主、ローレンス・ジョンストンの影響が大きかったと言われています。

ミューア夫妻がキフツゲート・コートを購入した11年前の1907年に、母とともにヒドコート・マナーを購入したジョンストンは、隣に移り住んできたヘザー・ミューアと非常に仲の良い友人となりました。

ヒドコート・マナー・ガーデンにあるプールガーデンは、当初は実際に泳げるようになっており、ここでミューア夫妻の娘たちが泳いでいる写真が残っています。このことからも、人見知りが激しいジョンストンがミューア家ととても良い関係を築いていたことが分かります。

ヘザー・ミューアが徐々に完成していくヒドコート・マナーの美しい庭を眺めたり、またガーデニングを愛し、才能豊かであったジョンストンからのアドバイスを受けたことが、キフツゲート・コート・ガーデンズの発展に大きく関係しているのでしょう。

1代目、ヘザー・ミューア

もともとキフツゲート・コートには庭と呼べるのは、ポーティコの前にあるフォーマルガーデンだけでした。ヘザー・ミューアはほとんどゼロとも言える状態だった敷地内に、1920年から庭づくりを始めています。

彼女はローレンス・ジョンストンが造り上げたヒドコート・マナー・ガーデンからたくさんの影響を受けたと言われていますが、彼と同じようなガーデンを造ろうとは思っていなかったそう。

このことからたとえ多大に影響を与えてくれた人物の庭がすぐ近くにあっても、そう簡単には人の模倣をすることはない、彼女の強い意志が伺えるような気がします。

ヘザー・ミューアはレイアウトを机上でデザインするというよりも、キフツゲート・コートの敷地に似合った小さなエリアに区切り、自分の目で確認しながら庭園づくりを進めていったそうです。

このふたつのガーデンを比べる人々からは、ローレンス・ジョンストンが造り上げたヒドコート・マナー・ガーデンのレイアウト、そして植栽は男性的だと言われています。

一方、キフツゲート・コート・ガーデンズの植栽はカラーがテーマとなっています。そのせいでしょうか、庭園の雰囲気はとても女性的と言われることが多いようです。

しかしふたつのガーデンの印象の違いは、作り手の性別というだけではなく、ふたりの創造主の強い個性の表れかもしれません。

ダイナミックな土地の形状を活かして

のちに時代の移り変わりによって幾多の変更は生じたものの、現在のキフツゲート・コート・ガーデンズの基礎はヘザー・ミューアの優れたセンスと類まれなる努力によって、彼女の時代にほとんどが完成しています。
キフツゲート・コートの敷地は一面ががくっと谷底に落ちるような形状をしており、この庭園の中でも最もダイナミックなシーンとも言える場所があります。

普通のガーデナーであれば躊躇するようなアップダウンの激しい土地を、ヘザー・ミューアは1930年代に逆にその急斜面を活かして、このエリアを印象的な庭に仕上げています。

また、彼女は同じく1930年代には現在はウォーター・ガーデンとなっている場所にテニスコートを造るなど、数々の異なるレイアウトに挑戦しています。

ヘザー・ミューアは1961年に、そして夫のジョン・ブキャナン・ミューアは1956年に亡くなっていますが、それよりも数年前の1954年に夫妻はキフツゲート・コートの大邸宅に比べるとこぢんまりとしており、ふたりで暮らすのに住みやすい大きさの家であるフロント・ロッジに移り住みました。

そしてふたりの子どもの長女であるヘザー・ダイアン・ビニー(ダイニー・ビニー)と、夫のジョン・アンソニー・フランシス・ビニーが、キフツゲート・コートに住むことになりました。

2代目、ダイニー・ビニー

乗馬などを好んでたしなむ活発な少女であったダイニー・ビニーは、元々はあまりガーデニングに興味はなかったと言っています。

しかし彼女は母であるヘザー・ミューアの跡を継いで、キフツゲート・コート・ガーデンズの美しさを継続、そして発展させていくことになりました。

1960年代にはヘザー・ミューアが造り上げた急斜面の庭に半円形のプールを配置し、地中海の雰囲気をも持つ独特な景観を造り上げます。

また、1930年代からチャリティーのために一般公開をしたこともあるキフツゲート・コート・ガーデンズを本格的に人々に開放したのも彼女の時代です。

また、ダイニー・ビニーはポーティコの前に造られたホワイト・サンク・ガーデンに小さなプールと噴水を組み込むように再設計しています。

イギリスのTVのインタビューで観た彼女は、「ガーデニングの本は何の役にも立たないし(‼)、間違った情報が多い」とずばりと発言したりなど、とても威勢の良い、はきはきとした元気な女性という印象を受けました。

3代目、アン・チェンバーズ

1974年、60歳になったダイニー・ビニーは、ヘザー・ミューアと同じようにフロント・ロッジに住まいを移します。そのため、この広大なキフツゲート・コートには1974年から1981年までは誰も住んでいない状態だったそうです。
そののちの1980年代、ダイニー・ビニーの長女であるアン・ヘザー・チェンバーズ(アン・チェンバーズ)と、夫のジョナサン・ガイ・チェンバーズがキフツゲート・コートに住むようになり、チェンバーズ夫妻が祖母から受け継がれてきた庭づくりを継承していきます。

チェンバーズ夫妻はキフツゲート・コートの邸宅の内部を大きく近代化し、1990年代に元はテニスコートだった場所にウォーター・ガーデンを設計し、モダンな印象をキフツゲート・コート・ガーデンズにもたらしました。

また、引き続き庭園を一般にオープンしており、来場者のためにギフトショップやティールーム、ナーサリーを開いています。

今回キフツゲート・コート・ガーデンズを滞在した際に驚いたことが、エントランスで入場料を支払うときに、持ち主であるアン・チェンバーズが受け付けを担っていたことです。

これまでさまざまなガーデンに滞在しましたが、持ち主の方が現場で働いているのを見るのは、今までに一度も経験したことはありません。

彼女はTVのインタビューで、よく来場者にここで働くスタッフの一人に間違われるのよ、と笑いながら語っていましたが、間違えてしまった方の気持ちも何となくわかるような気がします。

このような大きな邸宅と広大な庭に何世代にも渡って住んでいる人、と聞くと、私のような一般庶民はとてもポッシュな女性を想像してしまいます。

しかしそのイメージを打ち砕くかのように実際のアン・チェンバーズはとてもフレンドリーで、笑顔が素敵な女性であり、来場者の方たちの質問にもほがらかに答えながら、一緒にお話をされていたのが印象的でした。

また、彼女の夫であるジョナサン・ガイ・チェンバーズも、アン・チェンバーズと一緒に、キフツゲート・コート・ガーデンズの継続に努めており、滞在した日にもナーサリーで来場者の方たちとにこやかに会話していました。

同じTVのインタビューで、「ガーデニングを始める前は、妻と義母のふたりがケアする庭を眺めて楽しんでいただけだった」と彼は述べています。

「でも自分がガーデニングを始めると、ここにはあの花を植えたらどうだろうとか、ここの雑草を抜かなくちゃ、と気になって、以前のようには鑑賞するだけではなくなってしまった」と笑顔で語っていたのが印象に残っています。

彼のこの感想はガーデナーの方であれば、もっともなことだと、きっと頷いていただけるのではないでしょうか。彼がとてもガーデニングに魅了されているのがよく分かるエピソードでした。

この素晴らしい庭園を維持していくのは大変なことも多々あると思いますが、ひとりのガーデナーとして、ともに庭づくりを愛し、一緒にガーデニングをこなしていくご夫婦に憧れを持たずにはいられませんでした。

キフツゲート・コート・ガーデンズの歴史をスタートさせたミューア夫妻は3人の子どもに恵まれましたが、そのすべてが女の子であり、その中の長女のダイニー・ビニーがキフツゲート・コートとガーデンを引き継ぎました。

そしてビニー夫妻のふたりの子どももどちらも女の子であり、これもまた長女のアン・チェンバーズが継承しています。

偶然にもガーデンのオーナーは3代とも女性となりましたが、3人の異なる個性や感性が新たな風景を生み出しつつ、昔と変わらぬ伝統をずっと引き継いでいるのが、キフツゲート・コート・ガーデンズです。

印象的な邸宅やその繊細なカラーリングと優美な植栽、エレガントなレイアウトやダイナミックな土地のかたちを利用した景色など、見るべきところがいっぱいの贅沢な庭園であるキフツゲート・コート・ガーデンズ。

この庭園は一度滞在した方でもまた、違う季節に訪れたいと思わせる多くの魅力を持っています。次回はキフツゲート・コート・ガーデンズの庭園の魅力についてのレポートをお届けします。