イングリッシュ・ガーデンを巡る旅~スコットニ―・カースルを訪ねて~

英国にはたくさんのガーデンが存在しますが、滞在した時にはもちろんガーデンを見るのも楽しみだけど、忘れてはならないのが邸宅の存在。時代や地域によって異なる、個性を持ったお城や住居が多くあり、ガーデンとの素敵なコンビネーションを描いています。今回は最もロマンティックな庭園とお城と呼ばれるスコットニー・カースルについてレポートします!

スコットニー・カースルは、イギリスは多くのガーデンがあるケント州に位置しています。こちらが他のイングリッシュ・ガーデンと少々趣きが異なるところは、住まいとして建てられたお城がふたつ、あるところと言えるのではないでしょうか。

このスコットニー・カースルはふたつの邸宅のうち、ひとつは廃墟となっており、廃墟とガーデン、どちらも大好きな私にとっては、訪れるのを楽しみにしていた場所なのです。

まずスコットニー・カースルに到着すると、すぐに目に入るのが時計台のある、現在はチケットオフィスとショップのある建物です。

こちらでチケットを購入、ギフトショップもしっかりチェック。平日でしたが、多くの方が来場されていました。

チケットオフィスから奥に進むと、『ニュー・ハウス』と呼ばれている建物が目に入ります。こちらは1837年から1847年の間に建てられています。

そして庭園の奥深くには現在は廃墟となっている、1378年から1380年にかけて造られた、『オールド・カースル』があるのです。

実は最初に『ニュー・ハウス』の外観を見ると、失礼ながら「ホントにロマンティックな庭園なのかな?」とちょっぴり疑問が浮かんでしまいました。

もちろん『ニュー・ハウス』も美しい邸宅なのですが、ロマンティックというよりは、どちらかと言えば質実剛健と言った、あるいは男性的な邸宅という印象を受けました。

ニュー・ハウスには半円を描いた手すりがあり、ここから奥へと続く広大な土地、そして遥か向うに建物がちらりと見えました。これがオールド・カースルに当たります。
きっと秋の紅葉の季節には、素晴らしい景色を楽しめるだろうなと想像します。

このニュー・ハウスからオールド・カースルまではなかなかの距離があり、お散歩としてはちょうど良いコースなのではないでしょうか。

滞在した日は非常に天候に恵まれた日だったので、皆さん思い思いに庭園を歩いていました。
また、ちょうどシャクナゲが咲き始めた季節でもあり、満開になればさぞかし美しい眺めに違いありません。

のんびりと歩きながら広い敷地を眺めていると、ようやく『オールド・カースル』に到着しました。正面から見た感じだと廃墟とは思えず、まだ充分に人が住めるのでは?と思わされます。
このオールド・カースルの周囲は堀になっており、ここにも散歩道が続いています。
この裏側からオールド・カースルを見た時は「ロマンティックな庭園と邸宅」という意味が分かり、感動でした!

裏側から見ると、城は崩れ落ちていて、そこへ蔦が絡まり、何とも言えない風情を感じさせます。晴天の日には、周囲の堀の水面に木々が映り、見事なコントラストを描いているのが分かります。

まるでこの美しい廃墟全体が、このガーデンのひとつの重要なフォーカルポイントとなっているかのようでした。

スコットニー・カースルの歴史

この美しい廃墟、今は『オールド・カースル』と呼ばれているこのスコットニー邸は、12世紀にその歴史をスタートさせました。

最初にロジャー・アッシュバーナムという人物が、この城を1378~80年に、フランスからの侵略に備え、要塞のようなマナーハウスを建てたのが始まりです。

このスコットニー邸は近くにあるボディアム・カースルと同じスタイルで、邸宅の各コーナーに円形状の塔があるのが特徴です。

現在では写真で見える、アッシュバーナム・タワーと呼ばれるただひとつの塔だけが現存しています。

その後、スコットニー邸は350年間もの間、カソリック教会のダレル一家が保持していました。
ダレル一家は1598年にイエズス会の神父、リチャード・ブラウントをこのスコットニー邸に匿ったとしても知られています。

1630年代には、その時の持ち主であったウィリアム・ダレルが邸宅の大部分を取り壊して改築、新しい3階層の石造建築を建てていますが、現在では残った壁と南練だけを見る事が出来ます。

さらに1720年代、その時代の持ち主であるジョージ・ダレルが再度改築を行い、現存しているアッシュバーナム・タワーに丸い屋根の頂塔と、タイル張りの円錐の屋根を取り付けています。

350年という長い年月に渡ってスコットニー邸を維持してきたダレル一家ですが、18世紀の半ばにダレル一族は口論が訴訟に発展してしまう事件を起こしています。

この長引いた訴訟によってダレル一家の財力は失われ、彼らはスコットニー邸を売りに出す必要性に迫られたそうです。

ダレル一家がスコットニー邸を手放し、1778年、エドワード・ハッセー1世がこのスコットニー邸を購入し、1783年から、1792年にかけて修復をしています。

彼はスコットニー邸について、「城の大部分は修復された現在では、周囲は魚たちが泳ぐ、水の流れる広い堀に囲まれている。堀の中に島があり、そこへ渡るために、中国製の橋が架けられている。

1階は正面と裏側にキッチンその他があり、使用人の部屋や客間がある。2階には2つの客間、大きなダイニングルーム、ブレックファストルームと2つの化粧室、5つの寝室、スタディルームと図書室があり、3階には8つ部屋がある。」と書き残しています。

今の廃墟から想像するのはなかなか難しいですが、この文献から、スコットニー邸がかなり大きな邸宅だったのが分かります。

このスコットニー邸を購入したエドワード・ハッセー1世は1816年、彼はこのオールド・カースルで自ら死を選ぶという悲劇的な結末を迎え、さらにその1年後である1817年、息子であるエドワード・ハッセー2世も37歳でこの世を去っています。

エドワード・ハッセー2世の未亡人であるアンは、この続けて起きた辛い出来事を振り払うかの如くスコットニー邸を去り、イースト・サセックスにある、ヘイスティングスの傍に位置するセント・レオナルズへと移り、そこで息子のエドワード・ハッセー3世を育てます。

幼い頃にスコットニー邸で暮らしており、また8歳で父親と死に別れたエドワード・ハッセー3世は、幼い頃から建築やガーデニング、ランドスケープに強い興味を抱いており、1835年に彼はスコットニー邸に戻る事を決意し、新しい住居である『ニュー・ハウス』を建てる事になるのです。

エドワード・ハッセー3世は、『ニュー・ハウス』の建築家としてアンソニー・スレイヴィンを選びます。
この時代の英国では、イギリスの活気ある時代としてエリザベス1世が統治していた頃を懐かしみ、エリザベス朝のスタイルが人気を誇っており、このアンソニー・スレイヴィンは若くして既に、この復興スタイルで評判を得ていたのです。
エドワード・ハッセー3世は、自分の建てたい建造物のヴィジョンをしっかりと理解しており、建築家とのミーティングは33回にも及んだとか。
建設工事は1837年に始まり、1843年に完成しています。

絵画のように美しい、『ピクチャレスク』な庭園造り

スコットニー・カースルを訪れた際に感じたのは、浅はかにも「ここはお城が有名で、ガーデンとしてはそれほど知られていないのではないかな」という事でした。

と言うのもスコットニー・カースルの庭園は、他のイングリッシュガーデンとは違い、庭園のあちこちに咲き誇るシャクナゲやアイリス、その他の様々な花を楽しむ事は出来るものの、花壇やボーダーなどが、一か所に集められているわけではなかったからでした。

しかしエドワード・ハッセー3世がそのような庭園のスタイルにしたのは理由がありました。

彼は旅行や絵画を描く事を好み、また庭造りに関しては、同時代に流行となったピクチャレスクについて書かれた、ユーヴドール・プライス(1747年~1829年)や、リチャード・ペイン・ナイト(1750年~1824年)から影響を受けていたと言われています。

また、芸術家であり作家でもあるウィリアム・ギルピン(1724年~1804年)の甥である、ランドスケープ・ガーデナーであるウィリアム・ソーレイ・ギルピン(1761年~1843年)にアドバイスを求めています。

しかしこうした影響を受けつつも、エドワード・ハッセー3世は、自身の水彩画家としての才能を遺憾なく発揮し、自分自身のピクチャレスクのヴィジョンを使い、この庭園を作り上げたのです。

ピクチャレスクとは、そのまま訳すと「絵画的な」あるいは「絵のような」となるのですが、これはこの時代の庭園や建築、芸術にも影響を与えた概念になります。

ウィリアム・ギルピンが発表したこの概念は、それまでのイギリスで大きな流行となっていた、風景式庭園を批判するものでした。

イギリスの風景式庭園とは、ランスロット・”ケイパビリティ”・ブラウン(1716年~1783年)を代表とする、ガーデンとその周囲の自然をひとつにし、庭園が自然そのものに見えるように造り上げたものでした。

ケイパビリティ・ブラウンがデザインした庭園は、広い敷地に流れる緩やかな傾斜を持った芝地が特徴ですが、ウィリアム・ギルピンやユーヴドール・プライスらは、これらの景色は整いすぎており平凡で単調、そして「ピクチャレスク」-絵画的ではない、と批判したのです。

彼らは絵画のように美しい—『ピクチャレスク』な庭園と言うものには、そこにドラマティックな景観と、粗さや鋭さが必要であると説いています。

1835年にスコットニー・カースルに戻って来たエドワード・ハッセー3世は、オールド・カースルをすべて取り壊すという案も出ていましたがこれを却下しています。

彼はこの歴史あるロマンティックな城を、新たな庭園の中でセンターピースともなる、最も重要なものとして残す事にしたのです。

この際に今もその姿を残す、1905年まではヘッドガーデナーや土地管理人が住んでいたという南練と、アッシュバーナム・タワー以外の建物は取り壊されています。

広大な土地に広がる芝生や樹木、そしてあちこちに咲き乱れる花々、そして古びた廃墟の城とその周囲を巡る堀…。

すべてのものが見事に溶け合い、スコットニー・カースルの庭園は他に例を見ない、「ピクチャレスク」、まさに絵画的な庭園として生まれ変わったのです。

スコットニー・カースルの『ニュー・ハウス』を建てたエドワード・ハッセー3世は1894年にこの世を去り、この邸宅と庭園を息子であるエドワード・ウィンザー・ハッセーに譲ります。

そして1952年、エドワード・ウィンザー・ハッセーの甥であり、エドワード・ハッセー3世の孫となる、クリストファー・ハッセーがスコットニー・カースルを相続します。

彼は未来の妻となるエリザベス・カー・スマイリー、通称ベティに、このスコットニー・ガーデンでプロポーズしたのだとか。うーん、ロマンティックなお話です!

クリストファー・ハッセーは学生の頃から『カントリーライフ』誌に記事を執筆しており、編集者としても活躍します。

また、イギリスの歴史あるカントリーハウスが社会的、経済的にもその存続を脅かされていると感じた最初の一人とも言われ、これらの建築物は将来も保存するに値するものだと書き記しています。

クリストファー・ハッセーとベティは、幅広い交友関係を持ち、中にはかつてのイギリスの首相、マーガレット・サッチャーとその夫、デニス・サッチャーも含まれています。

また、アメリカ人のガーデンデザイナーであるラニング・ローパーと友人となり、彼は度々スコットニー・カースルに訪れ、1970年に、クリストファー・ハッセーの伯母のものであったベニス風の丸い井戸の上部を中心として、上記の写真にあるように、周囲にハーブガーデンを作り直し始めます。

また、堀の周りには水を好む植物を植え、滅びていた東の練はハニーサックルや蔓バラなど、蔓性の植物を植えたそうで、これらの花々もまた、散策をしながら楽しむ事が出来ます。

クリストファー・ハッセーはスコットニー・カースルが今後もその存在を変える事なく維持していく事を希望しており、彼が亡くなった1970年に庭園をナショナル・トラストに寄贈していています。
また、彼らの住居であったニュー・ハウス内の一部は、ナショナルトラストによってフラットとして貸し出されました。

1970年から80年代にかけては、彼らの友人であったサッチャー夫妻が借りており、休暇の際にここを使っていたようです。
2006年にクリストファー・ハッセーの妻であるベティが亡くなると、ニュー・ハウスもナショナルトラストに寄贈され、現在では建物内部も一般公開されており、この内部も見学してとても楽しめるものです。

歴史あるロマンティックな廃墟のオールド・カースル、そして『ピクチャレスク』な庭園、ニュー・ハウス内部のハッセ―家の暮らし。

ロンドンからの日帰りも楽に出来、一度にたくさんのシーンを楽しめるスコットニー・カースルへぜひ訪れてみませんか?

ロマンティックな庭園へ! スコットニー・カースルへの行き方

スコットニー・カースルの最寄り駅はWadhurst (ワドハースト)駅となり、ロンドンから来る際にはキャノン・ストリート駅、もしくはチャリング・クロス駅から約1時間10分ほどとなります。

駅からスコットニー・カースルまでは約9キロ弱ほど、タクシーでの移動となります。Wadhurst 駅の周辺ではタクシーを見つけるのは難しい場合もありますから、予め往路・復路ともに予約をしておいた方が無難です。

タクシーの予約方法や、ケント地方の移動の仕方は『イングリッシュ・ガーデンを巡る旅~ケント地方おすすめのB&B Vol.2』の記事を参考にして下さいね。