イングリッシュガーデンを巡る旅 ~ パラム・ハウス&ガーデンズ Vol.1 ~

パラム・ハウス&ガーデンズは、ロンドンからも日帰りで行くことのできる場所、イギリス南東部のウェスト・サセックスにあります。広大な敷地に佇むエリザベス朝の大邸宅と美術館レベルのさまざまなコレクション、そして魅力にあふれたガーデン。今回はこの歴史あるパラム・ハウス&ガーデンズについてレポートをお届けします!

パラム・ハウス&ガーデンズとは

ロンドンより列車で約1時間15分ほど、およそ90キロほど離れた場所にあるウェスト・サセックスに位置するパラム・ハウス&ガーデンズ。

その敷地面積の大きさは875エーカー(約3.54キロ㎡、東京ドーム約76個分)という広大なものになります。

年間の来場者は2万5千人を超え、このエリアでも人気の施設であり、子どもたちから大人まで楽しめる場所となっています。

パラム・ハウスには広い土地と長い歴史を持つだけでなく、見るべきものがたくさんあります。
それはエリザベス朝の優雅な邸宅を始めとして、イギリスで3番目に長いと言われる圧巻のロング・ギャラリー。

さらに邸宅内に飾られている、美術館に貸し出すこともある肖像画や骨とう品、17世紀の刺繍のコレクションという見る人の心を奪わずにはいられない芸術品の数々。

そして4エーカーの大きさを誇る、エレガントさとナチュラルさがとけ合った、美しい庭園で人気を集めている場所なのです。

パラム・ハウスの歴史

パラム・ハウスの歴史は古く、始まりは14世紀と言われています。部屋とキッチン、ガレージ付きのわらぶき屋根のホールがあったとされる建物は、当時はウェストミンスター修道院によって維持されていました。

しかし1532年から1537年にかけて行われたヘンリー8世による宗教改革により、状況は大きく変わります。

ヘンリー8世とその側近であったトマス・クロムウェルによる修道院解散により、1540年にこのパラム・ハウスの前身であった土地と建物はウェストミンスター修道院から取り上げられ、ロンドンの商人であったロバート・パーマーの手に渡ります。

ロバート・パーマーとその息子であるトーマスは、わずかな月日ながらもこのパラムに住んでいたことがあったのではないかと言われています。

初代の持ち主であるロバート・パーマーの孫にあたる、ウィリアム・パーマーはエリザベス1世の名付け子でもあったエリザベス・ヴァ―ニーと結婚しました。

そして彼らの暮らしに似合った住まいをこの場所に建てるべく、1577年に建設作業が始まります。家の基礎石を置く作業は、まだ2歳半であった彼らの息子であるトーマス・パーマーが請け負いました。

これはその家に幸運を呼び込むというその頃の風習だったそう。父ウィリアム・パーマーは地元産の材料を使い、わずか6年という年月で、エリザベス朝の邸宅をこの地に建てました。

パーマー家よりビショップ家へ

パラム・ハウスの始まりを築いたとも言える小さなトーマス・パーマーは、大人になると意外な道を歩み始めます。

エリザベス朝時代の航海者であり、私掠船、つまりは海賊の船長でもあり、海軍提督でもあった、イギリスで初めて世界一周を達成した人物、フランシス・ドレイクに仕えるようになったのです。

彼は1596年にカディスにおける戦闘により表彰され、ナイトの称号を得ています。
サー・トーマス・パーマーがパラム・ハウスに残した足跡は殆どないと言われており、海での冒険を好んだ彼はこの地にとどまることに興味を持てなかったのかもしれません。

彼は1598年にはパラム・ハウスをトーマス・ビショップに貸し出し、さらには1601年に当時の金額4,500ポンドで売却しています。

パラム・ハウスより25キロほど離れた場所、ヘンフィールド出身の弁護士であり、国会議員でもあったトーマス・ビショップがパラム・ハウスとその敷地を購入してから、およそ321年間に渡りビショップ家とその一族がこの地に住んでいました。

トーマス・ビショップは1603年にジェームズ1世によりナイトの称号を与えられ、1620年には男爵となりました。

パラム・ハウスとその爵位は、トーマス・ビショップの息子エドワードへ、そして孫となるトーマス・ビショップが引き継ぎましたが、彼は未婚で亡くなったため、その兄弟であるセシル・ビショップへと受け継がれます。

のちに8代目男爵となったセシル・ビショップは彼の母が血を引いているという理由で、子息がいないためになくなってしまいそうであったズーチ家の男爵の爵位を受け継ぎ、12代ズーチ男爵となりました。

その後の1922年、第17代男爵夫人となったメアリーにより、パラム・ハウスとその当時の敷地3,733エーカーが売りに出されました。

そして実業家であったクライヴ・ピアソンが当時の価格20万ポンドで邸宅と土地を手に入れることとなったのです。

現在のオーナー一族、ピアソン家へ

1922年にパラム・ハウスとその敷地を購入したクライヴ・ピアソンは、サセックス郡の第1コードレイ子爵であるウィートマン・ディキンソン・ピアソンの次男でした。

彼は父が持っていた世界中に顧客を持つ土木工事会社を継いで会長となり、1936年から1947年にかけては現在のブリティッシュ・エアウェイズの前身、BOAC(ブリティッシュ・オーバーシーズ・エアウェイズ・コーポレーション)の会長を務めています。

さらに、英国の列車運行会社、サザン・レイルウェイズの取締役も務めた経歴を持つ、才知にたけた大富豪のビジネスマンでした。

クライヴ・ピアソンは1915年に結婚したアリシアとともにパラム・ハウスとその敷地を購入しました。

しかしこの地に320年を超える期間住んでいたビショップ家により邸宅の改装が幾度も行われていたにも関わらず、当時のパラム・ハウスには排水路もなく電気も通っておらず、屋根からは雨水が漏れているありさまでした。

夫妻は老朽化していたパラム・ハウスを建築家のビクター・ヒールに監督を依頼し、1920年代から1930年代にかけて大規模な修復と改装を行っています。

屋敷はビショップ家の時代に追加されたものが取り除かれ、元のエリザベス朝のかたちに再現され、さらにピアソン夫妻にとって住み心地の良いように配管や暖房、電気が設置されていったのです。

クライヴとアリシアは邸宅の改装だけでなく、パラム・ハウスから失われていった数多くのコレクションを収集し始めました。

パラム・ハウスについての歴史に関連するもの、あるいはかつてパラム・ハウスに存在していたものを、オークションで買い求めていったのです。

夫妻は美しい邸宅を蘇らせ、内部を美しい家具や貴重な絵画、芸術作品で埋め尽くしていきました。パラム・ハウスでは、アリシア・ピアソンが収集した国内では最も重要と言われる17世紀の刺繍のコレクションを鑑賞することができるのです。

またコレクションの中の特筆すべきものとして、パラム・ハウスにはスコットランド王ジェームズ6世、そしてイングランドとアイルランド、スコットランドの王としてはジェームズ1世の息子である、若き日のヘンリー・フレデリックの肖像画があります。

ヘンリー・フレデリックはその当時、王位継承者としてとても人気のあった王太子ですが、1605年に18歳でチフスのために亡くなっています。

当時、彼はプロテスタントにとって最大の希望であると考えられていました。ロバート・ピークによって描かれた肖像画では、ヘンリー・フレデリックは馬に乗り、頭部には前髪しかなく、翼を持つ男性を連れて歩いています。

この男性はギリシア神話のゼウスの末の子どもと呼ばれることもある、「チャンスの神様は前髪しかない」ということわざで知られるカイロスを表しているのではないでしょうか。

しかし王太子が亡くなったために元の肖像画とは違うものとなり、翼を持つ男性の姿は塗りつぶされ、ヘンリー・フレデリックが暗闇の中で一人、馬に乗っている姿となってしまったのでした。

この背後を塗り潰されてしまった肖像画は、長い間パラム・ハウスに掛けられていましたが、1980年代に展覧会のために絵を貸し出すように頼まれ、そこでX線によって背後に隠れた絵があったことが分かりました。

現在は元の姿に修復され、ナショナル・ポートレート・ギャラリーに貸し出されたこともあるこの肖像画は、パラム・ハウスのグレイト・ホールで鑑賞することができます。

パラム・ハウスを一般公開へ

第2次世界大戦終了後の1948年、ピアソン夫妻は友人であるイギリス彫刻の歴史家であり、収集家でもあるルパート・ガニスよりパラム・ハウスを一般公開するべきではないかと言われます。
しかしクライヴとアリシア・ピアソンはその提案に躊躇しました。

彼らは一般公開されるべき邸宅はブレナム宮殿やチャッツワース・ハウスのような著名な大邸宅であるべきで、パラム・ハウスはそれに値しないと考えており、たとえ一般公開しても訪れる人など誰もいないだろうと考えていたのです。

しかし次第に彼らは意見を変え、ついに一般公開することを決意します。
1948年の7月17日の土曜日、初めての一般公開の日にパラム・ハウスを訪れた人は61人でした。最初の来場者が現れたとき、彼らは驚くとともにとても感動したそうです。

そしてピアソン夫妻と長女ヴェロニカはその日から、パラム・ハウスに訪れた人々を迎えることに情熱を注いでいくのでした。

現在のオーナー、レディ・エマ・バーナード

ピアソン夫妻にはヴェロニカ、ラヴィニア、ディオーネの3人の娘がおり、その中の長女であるヴェロニカ・トリットンが1974年にパラム・ハウスを引き継ぎました。

ヴェロニカは最初の夫が亡くなったあと再婚していますが子どもはおらず、1993年の彼女の死後、パラム・ハウスを引き継いだのはピアソン夫妻の次女、ラヴィニアの孫娘にあたる、レディ・エマ・バーナードでした。

レディ・エマ・バーナードの両親はラヴィニアの娘のミランダと、ビール醸造会社ギネスの初代所有者の子孫である第3アイヴァー伯爵のアーサー・フランシス・ベンジャミン・ギネスになります。

伯爵令嬢としてダブリンに生まれ育ったレディ・エマ・バーナードですが、幼い頃からたびたびこのパラム・ハウスに訪れていたそうで、この場所にたくさんの思い出と愛着を持っていたようです。

しかしパラム・ハウスを引き継ぐ決断を下したことは決して容易ではなかったと話しています。
確かに、この広大な敷地と古くからの長い歴史を持つ邸宅を管理し、その責任を負うのは並大抵の努力ではできないことだと考えられます。

継承者のリストでは4番目であり、まだ30歳になったばかりだったレディ・エマ・バーナードは、3週間この邸宅で過ごしたのちにようやく、このパラム・ハウスを引き継ぐ決心をしたのでした。

クライヴ・ピアソンの両親は、なぜクライヴとアリシアが購入したパラム・ハウスを時代の流行に合わせ、ファッショナブルでモダンな装飾にしないのかを不思議に思っていたそうです。

しかしピアソン夫妻はこの邸宅を、できる限りエリザベス朝時代のままに現存すべきだと強く思っていたそうです。

だからこそ夫妻は、電気や水回りこそ現代のものに変えてもその他を変えることなく、エリザベス朝時代から残るこの優雅な邸宅と装飾を維持し続ける努力を重ねてきたのでしょう。

そしてその強く揺るぎない想いは、現在のオーナーであるレディ・エマ・バーナードにもそのまま引き継がれています。

しかし彼女はパラム・ハウスを博物館とは思っておらず、この場所は家族に愛され続けてきた家であり、人が住む場所であると感じています。

彼女はこの大きな邸宅で、常に部屋の窓を開けて新鮮な空気を入れ、屋敷内の随所に花を飾り、家族とともにこの家での生活を楽しんでいるのです。

彼女は夫のジェームズ・バーナードと二人の息子とこの家に住み、そしてこの先もパラム・ハウスが現在と同じように引き続き人が住み続けることを望んでいます。

そしてパラム・ハウスに訪問する多くの人々がその歴史を知り、コレクションを鑑賞し、感動を得られる場所であって欲しいと話しています。

現在ではパラム・ハウスを永続的に維持していくために、多くのエリアは慈善信託であるPulborough Brooks Nature Reserveによって管理されています。

ピアソン夫妻とその一族が愛情をこめて大切にしてきたパラム・ハウスはこの先もきっと、いつの時代になっても変わらず多くの来場者にあふれ、そして人々に愛され続けていくに違いありません。

古く長い歴史があり、さまざまな物語を持つパラム・ハウスですが、4エーカーの規模を持つ庭園もまた素晴らしいものでした。

繊細かつ大胆なカラーリング、クラシカルとモダンが美しく融合した植栽、そして誰しも憧れずにはいられないロマンティックなグラスハウス。

次回はたくさんの魅力がつまったパラム・ハウスのガーデンのレポートをお届けします。